株式会社ELC JAPAN

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情熱が危機を救う

再開発の危機
  これまでの仕事の中で、一人の情熱が街づくりを進めていくのだと、実感することが何度もありました。特に印象に残っているのは、ある都内の再開発地区でのことです。私にとっては、ごくごく駆け出しのころの体験です。
  再開発事業を推進して行くには、できるだけ早いうちにディベロッパーを決めなければなりませんが、その地区では再開発後のポテンシャルがあまり無くて、民間のディベロッパーはほとんど興味を示さず、結果的にある公社がディベロッパーとして参加することになりました。自治体から請われて仕方なく参加したという状態のスタートです。
  何とか計画も進み、地権者の人たちへの具体的な数字の提示となった段階で、どうしても賛成できない人が出てきました。これでは、自分は賛成できないと、ゴネ始めたのです。しかし、基本の条件はみな同じです。その人だけ特別扱いするわけにはいきません。膠着状態が続いているころ、計画地の裏側の近隣から、某公社(ディベロッパー)にクレームが入りました。地元でも賛成していない事業を強引に進めて、近隣に迷惑をかけるのは許せないと匿名の電話が某公社に入ったのです。内部の反対だけでなく、近隣からも反対の声が上がり、しかも、地区内部の地権者が近隣と同通して、反対を煽っているということが明らかになってきました。
  某公社としては、このように、内部からも外部からも反対が出てはもう事業協力は続けられません。地元で緊急説明会が開かれ、その席で某公社がこの事業から撤退すると言明したのです。「このように、内部の反対者が外部と同通して反対を煽るとは、すでに信頼が失われた。しかも、今まで信頼関係があると思っていた役員の中からも、外部の反対者と同通する者が出るようでは、この事業はもう成り立たない。当社はこの事業から手を引く」
  純粋にこの事業に賛成し、今まで協力してきた地権者の人たちは、寝耳に水という感じで、動揺が広がりました。裏に流れる河川の拡幅工事とセットで考えていた事業ですから、このタイミングを逃すともはやまとまった再開発はここで終わりとなってしまいます。さる保険会社の底地に39名の借地人がいる、という地域の特殊事情を考えると、某公社が降りた時点ですべてが終わりとなってしまいます。地主の保険会社は再開発事業しか認めず、個別建て替えとなれば、厳しい建替え承諾金が要求されるだろうということは分かっていたからです。
  某公社は自分たちの主張だけすると、さっさと帰ってしまいました。後に残された地権者ははじめ茫然としていましたが、そのうちに、この再開発がいかほど自分たちの夢だったか考えると、失ったものの大きさに泣き出す人まで出てきました。混乱のきわみです。 一人の情熱が危機を救う
  そのとき、一人の男性が立ちあがりました。今まではおとなしくて、会合でもほとんど発言などする人ではなかった人が立ちあがって「これまで自分は、傍観者で人任せだった。だけれども、今やっと目が覚めました。この事業はここでつぶしてはならないと思います。もし、今からでも間に合うなら、追っかけて行って某公社の人たちをもう一度、ここに迎えたい。そして、近隣の問題も私たちで解決すると伝えたい。そうしないと、必ず後悔する。私にどこまでできるか分かりませんが、私に賛成してくれるなら、今から一緒に某公社に出かけませんか。そして私たちの希望を伝えたい。私たちが生きる道は、そして子孫に残してやれるのは、この再開発しかない。どうですか皆さん。もう一度一緒にやりませんか」
  この人は、涙を流しながら訴えたのです。この涙ながらに訴えた人は、当時でも珍しい習字用の毛筆を手作りで作って販売している人でした。職人ですから口数も少なく、黙々と仕事をする人で、この地域の中でもあまり目立たない人でした。その人が立ち上がったのです。彼の涙につられて、みんなも涙を流し始めました。「そうだ。そうだ。もう一度やろう。みんなで頑張ろう」あちこちで声が上がりました。
  そのあと、この会合を緊急総会に切替えて、もう一度某公社を迎え入れようと決議され、全員が今までの条件で了承するという、再開発の同意総会に切り替わってしまいました。そのあとの、事業のスピードは目を見張るばかりでした。そして数年後に、この事業は完成したのです。今でも、涙の総会として知られている、東京のある地区での話です。
 
  要は、街づくりをすすめるには情熱が必要だということです。1人の情熱があれば、周りを動かしていけるということを、この再開発の事例は伝えてくれています。情熱さえあれば道は開けます。 
社会変革の情熱
  社会変革もまた情熱次第です。社会変革の情熱ということに関しては、明治時代に新島襄という方がいました。これは同志社大学を作った方です。今ではあまり知られていないのですけが、同志社大学の創立者新島襄です。この人も江戸の末期、当時海外に出ることは禁止されていたのですが、その禁を破って自分で脱藩して、単身でアメリカへ行ったのです。江戸末期の留学は藩から派遣されて行く、いわゆる公儀の留学が多かったのですが、新島襄は自らの意志で渡米し、自らの意志でアメリカの大学に入って、十年以上学んだ。その間日本では明治維新という革命が起こっていました。
  彼はアメリカの大学に入ったので、キリスト教も勉強していました。ある時、教会で話をしなさいと言われて彼は、教会で話をしました。英語で切々と訴えたのです。今日本では、革命が起こっている。しかし日本にはまったくお金がない。その日本には、新しい文明、近代文明の波が寄せているけれども、自分はそういう近代文明の大学ではなくて、もっと心の底からキリスト教文明に則った大学を作りたいと思っている、ということを教会で説法したのです。本当に情熱的に説法した。そうしたらその説法を聞いていた、ある裕福なお医者さんがまとまったお金を寄付してくれた。さらに、その場にいた全員がその話に感動してくれて、結果、当時のお金で5000ドル集まったといいます。これは当時としては、大金です。
  最後に、彼が説法を終えて壇上から降りようとしたら、貧しい農夫が近づいてきて、ポケットから2ドル紙幣を出して、これを受け取ってくれ、このお金で自分は汽車に乗って家に帰るつもりだったけど、自分は歩いて帰るから、この2ドルを受け取ってくれ、と言って自分の最後の無け無しの金をはたいて、彼のために2ドルを出してくれた。
  というほどに、彼の話は感動を与えたようです。そのお金を元手にして新島襄という人は同志社大学をつくったわけですが、こういうことが「明治という国家」(司馬遼太郎著、NHNブックス)に載っています。その頃の、新島襄の精神状況を司馬遼太郎氏は次のように書いています。

  彼は上州安中藩板倉家の江戸屋敷にうまれ、武士でありました。こっそり函館までゆき、そこからアメリカ船ベルリン号(ウィリアム・セーヴォリー船長)に乗りました。この密出国の動機について、新島は、後年振り返って「この挙は、藩主や両親をすてるということではない。自分一個の飲食栄華のためでもない。まったく国家のためである。自分の小さな力をすこしでもこの賑わざる国家と万民のためにつくそうと覚悟したのである」と、まことに明治人らしい。文久3年の新島襄という無名の青年の精神は、のちの明治国家の精神でもあったでしょう。

  要は、そこまで強い情熱を持った新島襄の念いが、言葉にも表れ、行為にも表れて、それが人を動かしたということです。 森を救った小鳥
  似たような話は、仏教の説話の中にもあります。「森の小鳥」のたとえ話があります。どういう話かと言いますと、ある時森に火事が起こった。それがだんだんと大きくなって火が広がっていく。動物たちがどんどん火に追われて逃げていく。ある池の側まで火が迫ってきて、いろいろな動物が池の周りに集まってきた。兎や鹿やリスや小鳥など。そういう小さい動物たちが皆、池の周りに集まってきて、追い込まれて、もうこれは駄目かなと思った時に、1羽の小鳥が飛び立っていって池に飛び込んだのです。そして、羽を濡らしてそのまま火の方に飛び立っていってパタパタと羽ばたきをして、その自分の羽にに付いた水をかけた。当然ジューと言って、一瞬にして蒸気になって消えていきます。しかしそれでもその小鳥はまた戻ってきて池に入って羽を濡らしてまた飛び立っていって、パタパタと水をかける。しかしジューと水蒸気になってまた消えてしまうわけです。それを3回、5回、10回とやり続けた。それを見た別の小鳥が「そんな無駄なことはやめなよ」と言ったが、その小鳥は、「僕はやらずにいられないんだ」と言って、さらに20回、50回とやり続けました。へとへとになってきた。それでも池に戻って水を付けて羽ばたく、ということを繰り返した。
 ところが、へとへとになって、もう倒れるかなという時に、「じゃあ僕も手伝おう」と別の小鳥が、真似をして池に飛び込み、飛んでいって羽ばたいた。そして、5回、10回と同じようにやり続けました。それを見て小鳥という小鳥が全部真似をしはじめたのです。それを見た他の動物も、兎も鹿もリスも象もキリンも、全部の動物が水に飛び込んで身体を濡らして火の側まで行って水をかけた。
  ということをやっているうちに風向きが変わってきて、だんだんと火が向こうへ去っていった。そして動物たちが救われたという話です。森の小鳥のたとえ話として、仏教の説話に出てきます。 
情熱が道を開く
  まこと、情熱とはよい仕事をするものです。
「情熱は、才能に勝る」。これは、松下幸之助氏の言葉です。

雪だるま型人生観

反省でなく行動を
  以前紹介した転職を繰返す若い青年の話(すべては自分の問題)や、前回のペンション経営者の話(究極のシンクロニシティ)、あるいは松下幸之助さんの熱海会談の話(自己責任の原則)は、反省して自分の心を変えたら周りが変わったというものです。ところが、心を変えるというのは結構大変なのです。心というのはあるのかないのかよくわからない。これまでの話を聞くとなんとなくありそうかなと思ったかもしれませんが、でも本当にあるのかというとわからない。掴み所がありませんから、心を変えろ、心の構造改革をしろと言われてもなかなか難しいところがある。そこで次に、もうひとつ別の観点から考えてみます。それは「行動によって心を変える、行動によって心を鍛える」というものです。
  別の言葉でいうと、悩んでいるよりは行動しなさいということでもあります。落ち込んでいるよりは行動しなさい。落ち込んでいて、原因はどこにあるか考え始めるともっと落ち込んでしまう人がいますから、そういう場合には、反省するよりもいったん過去を断ち切って行動しなさいという考え方もあります。 
警察学校をトップで卒業
  これも以前、私が四国のまちづくりで知り合った、ロータリークラブの方の体験です。地域で経営者として成功し、すでにその地域で影響力を持った方でした。私よりも少し若い方で、この方も父親に対して反発して、高校を卒業してすぐに四国を出て東京へ行った。お父さんという方は新聞記者だったのですが、その父親に反発して、東京の大学へ行くことにした。ともかく自分ひとりで生きていくぞと決意して、行動に移した。ところが、お金がありませんから、最初はお金を稼がなければならない。そこで、働きながらお金がもらえてしかも勉強の出来る所というので、彼は試験を受けて警察学校へ入ったそうです。入校生は一応地方公務員ですから給料が出て、しかも法律的な知識も身につけられるというのでそこへ約1年間通った。その警察学校を、彼はトップで卒業しました。そして警察学校を卒業すると、みんなそれぞれの都内の警察署や交番に配属されます。そこで彼はある交番に配属されました。現場のおまわりさんというのはやはり成績が評価されます。検挙率というもので評価されるらしい。万引きとか、あるいは家宅侵入とか、交通違反とか。そういう犯罪者を何人つかまえたかで点数が決まるようです。
彼はある交番に1年間勤めて、成績が都内のお巡りさんのトップになった。これは、じつは彼が初めてらしいのです。警察学校も学業優秀でトップ、検挙率もトップ。両方ともトップというのは彼が初めてだったのです。そういう実績を積んで、彼はすごく自信を持った。しかし、もともと警察官になるつもりでいたわけではないですから、最終的には大学に行きたいということで、受験に望んだ。ところが、東大に行きたかったのですが、残念ながら東大は落ちてしまったので、さる公立の大学へ入ったのです。 
学習塾の成功  でも、やはり学費は全部自分で稼がなければならないので、アルバイトで子供の家庭教師を始めた。自分の6畳一間のアパートに子供を集めて勉強を教え始めた。検挙率も得意ということは、人間を見る目がとても鋭いのでしょう。子供に人気があって、口コミで広がって、学習塾の生徒がどんどん増えていった。それで大学の勉強よりも面白くなって、学習塾を何カ所も展開するようになってきた。大学は1年留年せざるを得ないくらいに忙しくなってきたので、仲間の学生アルバイトを使いながら、東京の町田あるいは川崎あたりで、最終的には250人くらいの先生を使うくらいの学習塾を展開するようになった。大学生でありながら、経営者として学習塾を経営したというのです。それが面白いくらいに儲かって、儲かって仕方がない。 
区議会議員に当選  お金ができたものですから、当然のことながら、普通のサラリーマンなんかする気が全くなくなってしまいました。そうしたころ、地域に密着した学習塾ですから、たまたま父兄の方から、区議会議員の選挙に出ないかと誘われたのです。それじゃあ出てみようかと、何の地盤もないのですが、ただ学習塾で実績があっただけで、区議会議員の選挙に出ました。結果、40人中第2位で当選したというのです。28歳という最年少で区議会の議員に当選しました。もう今から30年以上も前の話です。
区議会議員になると、自分のお父さんくらいの年齢の、役所の部長や課長が、ペコペコ頭を下げていろいろなことを報告に来る。とても気持ちがよくてやめられない。今まではこちらの方が頭を下げていたような年輩の人が、逆に自分に対してペコペコするのですから。そういう状態で、28歳で区議になって3年くらい勤めていた。ところがちょうど任期が終わる直前に、今度は都議会議員の選挙があった。そしたらまた父兄から、「先生、今度は都議会議員に出ませんか」と言われて、区議会議員辞めて都議会議員の選挙に出たのです。今までの蓄えや、人脈など全部投入し、かなりの借金もして、都議会議員の選挙に出ました。
当時でも、都議会議員に出ると、だいたい1億円使わないと当選しないと言われていました。1億円です、つまりそれくらいの金は使ったということです。ところが、世の中それほど甘くはない。今度は物の見事に落ちてしまった。そして全財産すってしまった。全部スッカラカンになったという。最後は自分の部屋に、段ボールいくつかとみかん箱が残ったくらいで、金目のものは全部持って行かれた。奥さんもさすがに愛想尽かして、こんな人とは一緒にやっていられないといって、離婚されたという。 
人生のどん底
  最後に、そのとき支えになってくれた女性が一人残った。その後その女性と再婚するのですが、でももう、これでは東京にいられないということで、都落ちして大阪へ出た。しばらく何をする気にもなれず、ボーと過ごしていたら、たまたまそのとき、かつての知り合いの男性が訪ねてきて、その男性が、「これから1週間ほどアメリカへ行って来るから、ちょっと預かって欲しい」と400万円を置いていったそうです。現金で預かったというのです。彼は、あぁそうという軽い気持ちで預かった。
ところが、魔が差すというのはこういうことを言うのですね。自分は職がないわけですから400万円見てると、これを使ってうまく儲けられないかと、ふと思った。魔が差した。ピーンと来た。「競馬だ」。気がついたら、競馬場にいたというのです。
その日、一日で7レースあった。第1レースから順番にかけていった。1レース目、2レース目とも当たった、3レース目も当たった。6レースまで全部当たった。これはすごい!って、そして最後の第7レースに全部かけた。ところが最後の第7レースで完全にはずれて、400万円全部すってしまった。そしたらもう、怖くて怖くて、家に帰って布団かぶってブルブル震えて寝ていたというのです。死ぬことしか考えなかった。そこへ奥さんが帰ってきた。「どうしたの」「あの400万円すっちゃった。死ぬしかない」と。そうしたら奥さんがアハハハって笑ったそうです。「あんたの命400万?そんなに安いの」と言われたらハッと目が覚めた。結局一攫千金を夢見た自分が悪かったのだと気づいた。そしたら奥さんが「もう一回ゼロからやり直せばじゃないの。もう一回頑張ろうよ」と言って励ましてくれたので、一週間後、友達が帰ってきたときに2人で謝りに行った。半年以内に必ず返す、申し訳ないと謝って。 
ちり紙交換の成功  そして次に彼は岡山に行ったのです。少しでも故郷の四国に近づきたかったのでしょう。ちょうど、そのころ岡山駅の近くにちり紙交換の拠点があったらしいのですが、なんとか稼がなきゃいけないということで、そのちり紙交換を始めた。今ではもうちり紙交換というのはなくなってしまいましたが、そのころはまだ商売として存在していた。
2トントラックを借りて、そしてちり紙交換ですといってマイクで流しながらいろいろな所を回って歩くあの商売を、やりはじめた。もうお金がないから、背に腹は換えられない。奥さんはその頃ちょうど妊娠していたけど、母子手帳ももらえないくらいお金がなかったのです。それで、ちり紙交換やりはじめたのですが、彼は何回か周っている内に、ちり紙交換にもコツがあることに気がついた。普通のちり紙交換は1日1回転しかしない。朝トラック借りて出て行って夕方帰ってくる。ところが、彼はちり紙交換にコツがあるのがわかった。どういうことかというと、人口密度の高いところ、たとえば団地とか、あるいは道路の四つ角あたり、そういう人口密度の高い所がツボだとわかった。そこでそういう所に車を止めて、子供の童謡の、「メエメエ森の子ヤギ」という、あの童謡をずっと静かに流すのだそうです。ヤギは紙を食べるので、その童謡を流しておいて一軒一軒訪ねていくのです。「今、あの童謡を流しているちり紙交換ですけど、お宅新聞ありませんか?」と言って。「うちはまだ溜まってないわ」「溜まってなくてもいいですから、少しでもどうですか」と言ったら、みんな出してくれる。ちり紙いらないからといって、みんなただで出してくれる。今でこそ、資源回収で新聞紙は別に出しますけど、当時はまだ新聞紙とちり紙を交換することはビジネスになった。そうやって自分から一軒一軒訪ねていって新聞紙を集めていったら、1日4回転した。普通は1回転。自分から集めていくのですから、どんどんみんな出してくれる。あっという間にトラックが新聞紙でいっぱいになってしまう。1日4回転です。そうしたらあっという間にお金ができて、400万円の借金も返せた。 
本のセールスの成功
  それで半年ほどでそこを辞めて、次にまたもっと儲かる営業ということで、ある出版社の高価な本のセールス販売をやり始めました。ところが今度はやってもやっても全然契約がとれない。なぜだろうと思った。一方で全国トップのセールスマンがいる。何が違うのだろう? そこで一週間鞄持ちさせて下さいと頼み込んで、そのトップセールスマンの鞄持ちをした。よく見たらトークから何から全部自分と同じことを言っている。ところが彼は全部契約にしてしまう。自分はできない。なぜだろう。
ところがよくよく観察したら、心理状態が微妙に違う事に気がついた。彼はおそるおそる入っていた。そのトップセールスマンは自信をもって、明るく、爽やかに、「こんにちわ!」と言って入っていく。最初の精神状態が微妙に違うということに気がついて、それで自分も明るく元気にやり始めた。そしたら、次の月からトップになった。全国のトップセールスマンを6ヶ月続けた。それで、蓄えが出来たのでまた四国に戻ってきました。四国に戻って、その蓄えを基に彼はまた学習塾をやり始めました。今度はかなり目的を明確にした幼児教育の塾です。学習塾については彼自身過去の実績がありますから、そこでも能力を発揮しました。 幼児向けエリート塾の成功
  彼は、ある国立大学の付属小学校に入ることを目的にした、幼児向けエリート塾をつくったのです。そしたら2年もしないうちに、地元で評判の成功者になりました。あそこへ入ったら必ず付属小学校へ入れるというくらいの高い評判を得たのです。なぜすぐにそういう実績が出せたかというと、要は子供のやる気を引き出すことだという。やる気を引き出すには良い所を褒めてやることです。コツはこれひとつだと言っていました。子供の良い所を褒めると子供はいくらでもやる気が出る。勉強以外でも良い所を褒めてやる。それともうひとつは、そういう子供でも家に帰るとまた元に戻ってしまうので、母親も一緒に教育するのだと。母親にも子どもと一緒のクラスに入ってもらい、一緒に聞いて貰うようにしたら、子どものやる気がどんどん出て、口コミで広がっていって、評価が定着したという話をしてくれました。 
行動主義、行動療法  要するに、彼は行動主義者なのです。失敗しても落ちこまない。失敗して一時は悩んだとしても、長い間は落ち込まないで、次の行動に移っているのです。行動することによって、彼は自分の心を前向きに積極的に変えている。そういう人生です。つまり、失敗して落ち込んで、あぁダメだ、ダメだと、ダメになっていくのではなく、それを教訓に成長していく人生です。行動して自分の心の弱点を乗り越えていく。だから行動は心を変えるのです。行動は心を強くすることができるのです。 
 ところで、「大人のための勉強法-パワーアップ編」(和田秀樹著、PHP新書)という本の中に行動の重要性が述べられています。最近鬱病になる人や精神的にダメージを受ける人がたくさんいますが、この著者は精神科の医者の立場から、どうやったらそういう人を立ち直らせることができるかという視点でいろいろ書いているのです。この本の中でも書いていますが、最近のアメリカの精神医学界では、行動療法というのが主流になってきているらしい。以前の精神分析ではフロイトの夢分析が知られています。その人が見た夢から分析して、あなたの心のトラウマはこういうところにあって、ここを治すともっと積極的になれるとか、幸福になれるとか、そういう精神分析から心の改造ということをフロイトがやってきましたが、今、アメリカの精神医学の世界は、そういったフロイト主義ではなくて、もっと行動から入って心を治療していく行動療法が主流だと言うのです。具体的には次のように書かれてあります。 
 「1970年代頃からこの行動主義の考え方に基づいたアメとムチを用意して、行動の方を変えていく行動療法と呼ばれる治療法が、人間の心を変えるより短期間で治療が進む上に、治る確率も高いと人気が高まってきた。特に90年代以降はこの治療法の人気が高まっている。例えば、トラウマ(心的外傷)の後遺症の治療でもそれまでは、過去のトラウマの記憶をきちんと思い出して、それに向き合えるようにするのが治療の基本だったが、調べてみるとそのような回想を求める治療法はかえって悪くなるケースのほうが多い。それよりは、不安症状が出た際に、過去に原因を求めずに、今その不安に対してリラックスできるようにする行動療法的なテクニックを身につけたほうが、社会適応もよくなるし、具合も良いとされてきたのだ。」

ということが書かれています。心を変えよう変えようとするとそれにとらわれて、かえって過去を引きずってしまうという傾向がアメリカでも出てきた。それよりは、目の前にある問題を解決したいなら、まず行動を起こしなさいという考え方がアメリカの精神医学では主流になってきているということです。
  雪だるま型人生観  このような、行動を重ねることによって自分の心を変え自分の器を大きくしていく生き方、これを「雪だるま型人生観」と定義している人もいます。雪だるまというのは、最初は小さな雪のかたまりを転がしていって、だんだんと大きくしていくものです。その過程で石ころがついたり、土がついたりしますが、それにお構いなく転がしていくうちに大きくなっていきます。このように少々の石ころや土がついても、どんどん転がしているうちに雪だるまが大きくなっていくように、人生も失敗や不運があってもひたすらそこから教訓を得て次々と行動していくと、大きな器になっていくというものです。
石ころや土がついたからといって、それを取ろうとして止まってしまうと雪だるまはできない。場合によっては溶けてしまいかねない。それよりは、そういう石や土をものともせずに、ひたすら転がして大きくしていく。 
 今のちり紙交換の男性がまさにそうです。過去、成功や失敗もいろいろありましたが、その失敗や不運にめげることなく次々と行動していって、すべての経験を肥やしにして、器を大きくしていったのです。

  結局、まちづくりも、ものづくりも、サービスも、どんな事業もこの精神でいけば、不可能はないでしょう。成功しかないでしょう。

究極のシンクロニシティ

 前回に続いてシンクロニシティの話です。というのも、シンクロニシティは、ELC JAPANのポリシーだからです。シンクロマーケティング、シンクロマネージメントは当社の中心概念だからです。

  何年か前に、上諏訪駅前の再開発事業を視察する機会がありました。20数年前には、核テナントを誘致しない画期的な事業モデルともてはやされましたが、そのときはもう無残にシャッターが下りている区画もあり、人出もまばらでいかにも衰退ビルという感じでした。観光客が上諏訪駅で降りるのでなく、茅野駅に降りて上高地や蓼科に向かうという時代の変化のほかに、車社会になって諏訪市の若年人口が隣の茅野市のほうに移動してまった、という都市構造も影響しているのでしょう。以前の面影はありませんでした。
  そのとき、私の友人の紹介で、上諏訪の近くにあるペンションの経営者の奥さんに会うことになっていました。とてもユニークな体験をされた方だから、一度あってみるといいですよと、紹介されたのです。これからの話は、その友人から聞いていた話をさらに再度、直接、本人から聞いた話です。

 そのペンションは、以前大阪でサラリーマンをやっていたご主人が脱サラで始めたペンションで、Mさんが料理や接待のすべてを任されているのでした。一見、楽しそうにやっているように見えたペンション経営ですが、意外にも悩みを抱えているのでした。Mさんは、友人に次のような悩みを打ち明けたのでした。 ペンション経営の悩み
  Mさんはご主人と彼女の両親と移り住んで、ペンションを始めたのですが、なかなか思うようにお客様が来ない、ということで、最初のうちはけっこう、厳しかったのです。「どうやったら、お客様に来ていただけるか」「お客が欲しい、お客が欲しい」ということで、かなり心は「貧欲」になっていました。
  しかし、段々とコツがわかってきて、ある程度経営が、うまくいき始めたのですが、唯一の悩みは何かというと、Mさんのお父さんの問題なのでした。
  お父さんは月に1回か2回、必ずヒステリーを起こして、台所で食器を壊したり、机をひっくり返したり、嫌がらせをするのです。特に、週末に東京あたりからお客様が来ておられて、クラシック音楽がかかって、フランス料理を出しているような、そういう時に限って、嫌がらせをするのです。台所で、ガチャーン!と食器を壊したり、わざと音を立てたり。
  そうすると、「ああ、このお客様は、もう2度と、うちにはこないだろうな」と、心がヒヤッと冷めてしまいます。
そういうことが、必ず、月に1回か2回は起こるのでした。

  そうした頃に「どうしたら、いいでしょうか」という相談を、私の友人は受けたというのです。

  友人は次のように答えました。一つは、
「あなたは、自分の都合のために、お父さんの心を変えようとしている」ということ。
それから、もう一つは、
「ある問題が起こった時に、一番苦しむ人が、その原因を作っている可能性が高い」ということです。

  彼女は、その話を聞いて不満げでした。しかし、その日、彼女は家に帰ってよくよく反省したといいます。以下は、その時のMさんの心境です。 ——————————————— 被害者意識という名の「とらわれ」
  私は、確かに、父の心を変えようとしていた事に、気がつきました。それは分かったのですが、でも「一番苦しむ人が、原因を作っている」ということは、納得出来ませんでした。ペンション経営の当事者である自分。それに対して、迷惑を受けている自分。そして、そういう迷惑を作る父。一番苦しんでいるのは、自分なのです。だけど、どうして自分が原因を作ったのか。

  というのも父が、月に1回か2回、ヒステリーを起こすのは、実は、父は、両方の耳が聞こえないからです。耳が聞こえないから、時々ストレスが溜まって、物を壊すのです。しかも、父は、6才の時に耳が聞こえなくなったのです。3才の時に、中耳炎の手術を失敗して、右の耳が聞こえなくなりました。それから、6才の時に、また中耳炎で、今度は左の耳が聞こえなくなったのです。6才で、もう両方の耳が聞こえなくなったという、身体障害者になってしまったのです。
  そしてずっと、大きくなって、幸い、結婚もできて、そして、私が生まれて、育てられたのです。ただし、育つ過程で、やはり父は、非常にヒステリックな方でした。私はいじめられて、体罰を受けて、虐待されるようなかたちで、育って来たのです。だから、父親に対して、憎しみこそあれ、親しみなど、全く感じなかったのです。
「自分は、被害者だ。自分が原因を作っている?とんでもない!むしろ私は、父の原因によって、結果を受けている立場だ。」
  最初は、そう思ったのです。自分に原因があるとは、とても思えませんでした。はじめは、それ以外は考えられませんでした。その考えに凝り固まっていたのです。 
不幸と見える現象をどう理解するか
  しかし、帰って、ずーっと、夜、反省してみました。
  自分に原因があるのだろうか。一番苦しんでいるのは、自分。どうしたらいい。
  ずーっと反省していった結果、ある場面が思い出されました
  それは、父が小さい時に、2人のお兄さんがいたのですが、そのお兄さんから、いじめられている父、馬鹿にされている父でした。そのイメージが、パッと浮かんだのです。
  その瞬間、私はハッと理解しました。
「お父さんは、いじめられてきた人なんだ。お父さんは、愛されてこなかったんだ。つらーい人生を歩んできた人なんだ」
  それが理解できたのです。その瞬間、私は、ドッと涙を流しました。
「申し訳なかった。私以上に苦しい人生を歩んできたのは、お父さんだったんだ。」
そう理解できたのです。そして懺悔の涙を、ずっと流し続けました。数時間、流し続けました。そしたら、やがて感謝の涙に変わっていきました。
  そういう人生であるにもかかわらず、自分を育ててくれた父。それに気づかなかった自分、そういう愚かな自分に気がついたのです。
  泣き続けて一晩開けて、翌朝、私が台所で食器を洗っていたら、父が何気なく横に立っていて、フキンを手に持ち、「何か手伝おうか?」と、言っていました。
  父が家事を手伝おうかと言ったのは、生まれて初めてです。

  私の心が、父のそういった悲しい心を理解した瞬間に、父がコロッと変わってしまいました。
  私はそのころ、その地域の班長をやっていて、会合があって、その日、外へ出かけていたのです。そして、夕方帰ってきたら、父は、ペンションの庭を、ひとり黙々と掃除をしていたのです。
  今まで、たったの一度だってペンションの庭を掃いてくれるなんて無かった人が、自らそうやって、掃いてくれるようになったのです。 ———————————————— 
理解は許しに通じる
  つまり、Mさんの心が変わった瞬間、お父さんの心が変わった。何も声をかけたわけじゃないのです。何も、働きかけをしたわけではないのですが、心が変わったのです。お父さんの悲しい心が深く理解できた瞬間にお父さんが変わったのです。ここに深い心の共鳴、深いシンクロニシティを見ます。
  友人から聞いていた話を、私は再度じかに聞くことができて、とても感動しました。

  結局、不幸のひとつは、理解できないところから、始まります。自分と意見が合わない人の、考え方、生き方というものもありますが、それらが理解できると、すべて許せるのです。
  相手の心が理解できないから、許せないのです。反発するのです。あるいは、憎しみを持ったりするのです。

  数ヶ月経って、このMさんが、私のところへお手紙を下さいました。どんな手紙かといいますと、

波及効果の連続
  その後の経過を、お知らせしたいと思います。 今、父の自己変革が、どんどん進んでいます。 「困らせてやろう」が、「役に立ってやろう」に、変わりつつあります。
 時々、不調和な事もありますが、「ありがとう」という言葉が、圧倒的に、増えました。また、母に、とてもやさしくなりました。私は地域の班長をしているのですが、班の人たちにも奇蹟が次々と起きています。  ○Aさん  「私はもう、お迎えを待つばかりだ」と言っていた、寝たきりのお母さんに、明るい笑顔と言葉かけで接するうちに、だんだん良くなり、「もう医者には行かない」と意地を張っておられたのが、毎週通院し、腰は曲がっていますが、歩けるようになりました。その速度も、今では普通の人と、同じ速さで歩けるのです。 ○Bさん
  痴呆症の姑さんは、手のつけられない状態だったのですが、Bさんが、仕事を辞め、付きっ切りで看病された結果、排泄の感覚が麻痺していたお姑さんは、トイレで用を足せるようになり、Bさんの言うことも、通じるようになりました。
その後、この人は、痴呆症が治って、近所の方々と会話ができるようになりました。
  痴呆症解決のコツは、「やさしく言葉をかけ、抱きしめてあげること」、と言うのです。痴呆症は、普通治らないと言われています。特に、アルツハイマー型の痴呆症は治らないと言われています。ところが、これは治ったのです。コツは何かというと、やさしく言葉をかけ、抱きしめてあげることだそうです。 究極のシンクロニシティ
  その後、Mさんのペンションでもお客様が増えて増えてしょうがないという現象が起こり始めました。シーズン・オフで、他のペンションはガラ空きなのに、「うちだけ、何でこんなにお客様がくるんだろう」というぐらい、集まり始めたのです。何の営業もしないのに、東京の旅行代理店からどんどん予約が入り始めたのです。
「不思議です」と言っていました。

  こうして、父親のシンクロから始まって、地域のシンクロ、そして経営のシンクロが起こり始めたのですが、
ここから学ぶべきものは非常に多いと思います。

  結局、自分の幸福も、家庭の幸福も、地域の幸福も、そして会社の繁栄も、すべて繋がっていて、自分自身の自覚、覚醒から始まるということです。ある意味で、自分の環境というのは、じつは自分で創りだしているのかもしれません。
たとえ、自分には原因がないと思うことであっても、自分の問題と捉えて努力すると、思わぬ成功の道が拓けるということです。
  これは、松下幸之助氏が言っていた「事の成らざるは自分にあり」と同じことです。(「決断の経営」PHP文庫)

  そのようなことに気づくこと、これは最強の事業戦略、最高の経営戦略です。
何の経営資源も要らない、何の投資も要らない、何のコンサルタントも要らない、何のコンピューターソフトも要らない。唯一、自分の心の神秘な力に気づくこと。そしてそれを実践すること。
ありがたいことにこれは、誰にでもできること。そしてすぐにできること。唯一決意さえあればできることです。この技術革新のディジタルの時代に、人間の力の、何と神秘的なことでしょう。

シンクロニシティ(共時性)

 企業活動であれ、まちづくりであれ、成功の鍵というのは、事業という観点で言えばそう大きな違いはありません。企業活動もまちづくりも、成功の本質は同じだと考えていいでしょう。うまくいくときは、あらゆるものが噛み合って進んでいきます。人も、物も、金も情報も、すべてがうまく噛み合って加速度的に進んでいきます。ところが、まったく噛み合わないこともあります。どんな手を打っても、すべてが裏目に出てしまう、そういうこともあります。その違いはどこにあるのでしょうか。
  そこで、今回はシンクロニシティ(共時性)ということを考えてみます。

  ご存知のように、シンクロニシティ(共時性)というのは、ユング心理学のひとつの代表的な概念ですが、それは、次のように定義されています。
「同じ意味を持つ、複数の、因果的に無関係な出来事の同時生起」 

  これでは表現が難しいので、少し具体的な事例から説明していきます。  本心から相手の立場に立つ
  長野県のある人が、建設不動産会社に勤めていましたが、営業の仕事に行き詰って会社を辞めてしまいました。会社は辞めたけれども、仕事の知識としては、建設・不動産関係のことしかなかったので、結局自分で住宅リフォームの会社を立ち上げました。相手の状況も考えずに仕事を取ってくることには辟易していましたから、「無理な営業はしない」「相手の嫌がる営業はしない」ということをポリシーにしました。
  そこで、地域の新聞に折り込みチラシを入れて、ひたすら反応を待つという姿勢を貫きました。しかし、毎月5万枚、10万枚のチラシを入れても、かかってくる電話は、ほんの数件で、それも契約には繋がらなかったのです。まったく仕事のない日が続き、日に日に資金が底をついてきました。
  そうしたある日、一本の電話がかかってきました。小学生の息子の部屋のリフォームをしたいという、主婦からの電話で、そのリフォームにどれぐらいの費用が必要かという問い合わせでした。よくよく聞いてみると、ほとんど勉強をしない息子に、勉強の意欲を出させるために部屋をリフォームしたいということでした。あまりに息子の部屋が汚いので、きれいにすれば少しは勉強のやる気が出てくるのではないかと。
  それを聞いた彼は「そんな、部屋をきれいにするためだけに、何十万円もお金をかけるのはもったいないですよ。きれいにするぐらいだったら、私が行って掃除をしてあげますよ」と言って、彼はその家に出かけて行きました。2~3時間かけて、片付け、掃除機かけ、拭き掃除を終えました。「お金は要りません」「え!それでは収入にならないじゃないの?」「いえ、いいんです。自分は納得のいく仕事しかしないと決めていますから」
  そういうやり取りをして、彼はお茶だけ飲んで帰ってきました。

  ところが、その翌日から仕事の電話がじゃんじゃん掛かってき始めたのです。「以前、新聞の中に入っていたチラシを見て電話しているのですが」という電話が、対応しきないくらいに掛かってきて、何件もの契約成立となったのでした。
  その後、この会社は、快進撃。今や長野県一番の成長企業になり、全国から問い合わせが殺到して、住宅のリフォームのみならず、建売販売も手がけ、さらには売り上げ増のためのコンサルタントもやっているのです。なんと、社長の年収は5億円に達しているということです。きっかけは、一主婦から掛かってきた、その一本の電話でした。
  その一本の電話から、シンクロニシティ(共時性)という現象がおき始めたのです。 
執着を断つ
  このような話は、起業家だから起こりやすいということではありません。通常の企業活動でも起こりえます。次は、最大手のビール会社の元社長の話です。この方の出世話は、若いころの病気・療養の苦しさ抜きには語れません。

  20代後半、結婚して間もなく、子供もできてこれからというときに、突然原因不明の脊椎の病気にかかりました。当時は、まったく原因がわからず、したがってこれといった治療法もなく、ただ病院で療養するしかありませんでした。しかし、回復の見込みもなく日に日に衰弱し、病院生活が長引いていきました。会社の就業規則で決められた療養期間を過ぎると、もう会社には復帰できません。だんだんと心に焦りが出始めます。
  「もう会社を諦めるしかないかな」というときに、奥様の一言が彼を救いました「私が、がんばって食べさせてあげるわよ」

  早く治さなければならないという執着から開放されたのでしょう、不思議にその日から回復し始め、何とか就業規則に定められた療養期間を越える前に退院し、会社に復帰できたのです。といっても、数年のブランクは大きく、すでに同期のトップは係長になり、彼は窓際からの再スタートでした。しばらくのウォーミングアップを経て、彼は都内の酒屋さん回りを始めることになりました。社内で、つらい思いをするより、外に出て酒屋の主人と話しているほうが気がまぎれるということもありました。
  毎日毎日、酒屋さんを回り、酒屋の主人の要望を聞き、問題を聞き、ともに悩み一緒になって考えていきました。要望として一番多かったのは、手形の期限を延ばしてほしいということでした。出世しようという執着からすでに開放されていましたから、会社には堂々と手形の期日を延ばしてやってほしいと要求することができました。こうして、お店との信頼関係を築いていき、お店からは多くの注文をもらうようになりました。「あんたのためなら、なんでも応援するよ」と言ってくださる方が、何人も出てきたのです。
  その結果、売り上げはぐんぐん伸び、営業成績が社内トップとなりました。そして、同期のトップで課長に就任したのです。その後、さらに出世し、社長となり、会長を経て退任されました。
  これも、この方の心の状態と無関係ではないでしょう。成果を上げたい、出世したい、という執着を完全に断ったときに多くの店主が協力してくれるようになったのです。

  営業の世界におけるシンクロニシティ(共時性)であるといえるでしょう。 
我見・我欲が成功の法則を妨げる
  執着を断つことの大切さ、これはまちづくりにおいても同じです。そのことは、これまでもいろいろ話をしてきました。
  「我見・我欲はわざわいなり」では、私の体験を話しました。ある私鉄の駅前再開発事業で、最後まで反対していた女性の対応で苦労していたケースで、私が、自分の我見・我欲に気づいたとき奇跡が起こったという話です。以下にもう一度掲げます。

  ところが、そのとき、私はふっと「そういえば、彼女も辛いんだろうな。女性一人で誰にも相談できなくて、悶々としている。辛いんだろうな。私は自分の都合ばかりを押し付けてきたけど、もしかしたら彼女はもっと辛いのかもしれない。これは申し訳ないことをした。まずは、お詫びをしなければ」と、心底思ったのです。間髪をいれず私は彼女の家のチャイムを鳴らしました。
なんと、ドアを開けてくれたのです。私は言いました。「すみませんでした。私は、自分の都合ばかりを言ってご迷惑をかけました」と。そしたら、お座敷にまで上げてくれたのです。初めてお茶も入れてくれたのです。私は改めてお詫びの言葉を言いました。
  「そう、解ってくれた? 解ってくれたのなら、私は判子を押してあげる。私がどんなに辛い思いをしてきたか、近所では私がごね得を狙っているんだとか、意地悪しているんだとか、いろいろな噂が入ってきて、もう村八分ですよ。でも、もういい。解ってくれたからもう判子を押してあげる」

  権利変換の同意書に判子を押してもらって、すぐに区役所の担当課長に届け、すぐさまその同意書をもって、その日のうちに区の助役にも同行してもらって東京都庁舎に出向きました、すでにそれ以外の書類はすべて事前に届けてあって目を通してもらっていましたから、係長、課長、部長、そして局長と一人一人の捺印をいただいて最後に知事の印鑑もいただきました。
  滑り込みセーフ。奇跡が起きたのです。結局、「早く判子を押してほしい」「早く楽になりたい」という自分の立場しか考えない、私の我見・我欲が道を閉ざしていたのでした。そのことに気づいて、彼女に対して反省の思いを持った瞬間から何かが変化したのです。

  通常、権利変換の手続きには一ヵ月半ないしは2ヶ月必要といわれていますが、一日で手続きが終わったのです。この事業にかかわるすべての人が、協力してくれました。その日だけでなく、それ以降も。結果この事業はスムーズに終了しました。いま、この駅前は、改札から出て歩行者デッキを経て再開発ビルに入ることができます。ビル全体がとてもよく繁盛しています。(「我見・我欲はわざわいなり」より)

    私の目から見ると、このケースもシンクロニシティ(共時性を)起こした事例であると考えています。

  しかし、シンクロを起こしていないのに無理矢理に事業を進めようとすると、当然そこには軋轢が起こります。推進派と慎重派の軋轢が起こります。 
まちづくり、まち壊し
  形の成功にこだわるとどうしても、人の心を無視しがちになります。自分たちは善いことをしているのだから賛成しないのが悪いという思い込みの世界に入ってしまいます。その結果、相手の心を無視したやり方になっていってしまいます。以下も以前、私の体験として「閾値を超える」に載せた慎重派の人の言葉です。
 
  「推進派の人たちは、コンサルタントやディベロッパーに依存して、形ばっかり追っている。本当に必要なのは良いまちをつくろうという理想と行動ではないのか。コンサルタントやディベロッパーに任せておくのではなく、自分たちで主体的に考え、主体的に行動するべきだ。地域の人たちに対して自分たちの言葉で理想を語るべきだ」
  「もし、自分のところに来て、正々堂々とその理想を熱く語ってくれたなら、私も賛成したのに」(「閾値を超える」より)

  「まちづくりが、結果的にまち壊しになってしまっている」。これはその慎重派の人が言った言葉です。 幸福なまちづくり
  良いまちづくりとは、形の世界と心の世界とが相和して進んでいくものでなければなりません。ある意味では、心の世界ですばらしいまちづくりが実現できれば、それでいいのかもしれません。

  まちづくりに関して私が参考にしている本が、「少女パレアナ」(角川文庫)という児童小説です。これは、20数年前にTVでハウス名作劇場「ポリアンナ」としてアニメで放送されていましたから、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。愛する両親を亡くし、孤児となってしまった幼い少女パレアナが、自分の不幸にもめげずに、引き取られた伯母さんの意地悪にも耐えて、その明るさと素直さで周囲の人たちの冷たい心を溶かしていくという話です。
  出会う人、出会う人すべての良いところを探して、元気付けていきます。亡くなった父親から教えてもらった「喜び探し」をして相手を元気付けていくのです。毎日毎日、相手の喜びの種を見出していきます。結果的にその伯母さんを幸福にし、家中の人を幸福にし、地域全体の人を幸福にしていくという感動的な物語です。
  この小説が発表された1913年、ニューヨークではこの本のことが評判になったといいます。「あなたはもう読みましたか。あのパレアナという少女の話を」という会話が、山小屋でも都会でも、あちこちの喫茶店や公園で飛び交ったといわれています。パレアナイズムという言葉さえ生んだということです。強い意志と楽天主義、という意味でしょう。

  小説とはいえ、素直な明るさと強烈な意志があれば、幸福なまちづくりは可能というひとつの希望でしょう。シンクロニシティは、たった一人から始まるのです。 
自然界に起きるシンクロニシティ
  ところで、このようなシンクロニシティは人間社会にのみ起きるのではありません。自然界、動物の世界にも起きます。
  戦後間もないころ、故今西錦司先生率いる京都大学霊長類研究所が、宮崎県の海岸沖の幸島でニホンザルの餌付けをしたことがありました。しばらくサツマイモの餌付けを続けるうちに、それが成功して20匹ほどのサルがサツマイモを食べる習慣ができたのです。そのうちに一匹のサルが、海水でサツマイモを洗って食べるという行動に出ました。泥が落ち、海水がついてほどよい味になったのでしょう。それを見ていたほかのサルも真似し始めて、一気にサルのイモ洗い現象が拡がりました。幸島のサル全部がイモを海水で洗って食べるようになりました。
  ところが、ちょうどそのころ、大分県の高崎山のサルも同じようにイモを洗って食べるようになったといいます。さらに、高崎山のみならず各地で同じような現象が起きました。海のないところでは、川で洗ってイモを食べはじめたというのです。何十キロも離れたところで、同じ現象が同時多発的に起きたのです。これらも自然界で起きるシンクロニシティとしていろいろなところで引用されている現象です。

  もっと古くは、1917年、フィリップ・ローランによって「サイエンス」誌に発表された同調する蛍の光の報告があります。彼は、東南アジアを旅行したときに、ホテルから、数千匹の蛍が同じ周期で光るのを見て感動したといいます。まったく同じ周期で点滅する蛍は、いったいどのようなメカニズムで同調しているのでしょう。いまだに科学的に解明されているとはいえませんが、しかし、現実に自然界はシンクロしているのです。(「SYNC」早川書房) 
シンクロニシティを起こす秘訣
  宇宙には秩序がある。自然界には秩序がある。その秩序といかに同調するか。それが、人間社会における成功の鍵といえるかもしれません。
  要は、企業活動であれ、まちづくりであれ、成功の鍵は、関係者の間でいかにシンクロを起こすかということのように思います。宇宙にも自然界にも、精妙な秩序がすでに存在する。それといかにコンタクトするかということでしょう。

  鍵は、(1)本心から相手のことを考えること、(2)我見・我欲という執着を断つこと、この二つです。

まちづくり、人づくり(その2、自己責任の原則)

 前回は、再開発に反対しているそば屋さんの心の奥に屈折した心のトラウマがあったという話と、転職を繰り返す青年にも少年時代に刷り込まれた心の傷が影響しているという話をしました。その話の続きです。 
心次第で見方は変わる
  前回の話で、何を言いたかったのかといいますと、心のあり方次第で、他人を見る目は変わるということです。たとえば、サラリーマンの世界でも会社で仕事がうまくいかないとか、人間関係がうまくいかないということがしばしばあります。そういう時、「私はこんなに頑張っているのに、あの上司は、評価してくれない」とか、「あの上司はいつも無理な仕事ばかり私に押しつける」というように、つい私たちは仕事がうまくいかないその原因を相手に求めようとします。
  果たしてそれは正しいのかということです。そういうときは、一歩踏みとどまって、そういうふうにしか見えない自分は、果たして正しいものの見方をしているのかと、考えて見る必要があります。もしかしたら問題は相手にあるのではなくて、自分にあるのではないかと考えてほしいのです。

  仏教の言葉で「一水四見(いっすいしけん)」という言葉があります。一つの水は四つに見えると書きます。どういうことかと言いますと、水というのは川のことなのですが、あの世の世界では同じ川なのに、見る人によって全部違いますよということを言っているのです。魚がその川を見ると自分の住処に見える。普通の人が見ると普通の川に見える。ところが、地獄の亡者が見ると、その川は血の池地獄に見える。あるいは熱い炎のような火の川に見える。ところが、天国に住んでいる菩薩とか天使が見るとその川は水晶の川やダイヤモンドのキラキラ輝いた川に見える。ということなのです。これを「一水四見」というのです。要するに、同じ川なのですが、見る人によってその川の見え方は全部違うのですよという考え方です。仏教の唯識派という派があるのですが、そこでこういう教えを説いています。

  じつは、これは仏教ではあの世の話をしているのですが、前述の青年もその類なのです。父親が憎いという心で周りを見ると。欠点が目に付くのです。つまり彼は、子供のころ彼の父親をどう見ていたかというと、理想の父親であって欲しいっていう思いがあった。ところが理想の父親であって欲しいのに、浮気をしてしまった。そこで彼は苦しんだのだと思います。本当は理想の父親であって欲しいのに、浮気をして、自分の理想の父親ではなくなってしまった。こういう父親じゃダメだ、そういう「心の傾向性」が出来てしまった。そういう心の目で他人を見た時に、つい欠点が目に付くのです。仕事しか能のない上司だ、怒りっぽい上司だ、話題が低俗な上司だ。本当は理想的な上司であってほしいんだけど、低俗な話題しかしないとか。あるいは、重箱の隅を突っつく上司だとか。
  このように、先ほどのおそば屋さんの話といい、この転職青年の話といい、特に父親との関係というのは、地域社会では肩書きが上位の人との関係で現れ、会社では上司との関係に現れることが多いのです。もし、目上の人や上司との関係がうまくいかない人がいたら、父親との関係を振り返って見るといいでしょう。父親との関係が非常にうまく円滑にいっている人は、上司や権威に反発するということはあまりないものです。また女性で言えば、母親との関係がうまくいっていない人は、会社で上司にあたる女性とうまくいかないというのも結構多いように思います。いずれにしても、原因は自分の心の傾向性にあるのだということです。 
公憤と私憤
  このことに関して思い出す方がいます。数年前、高齢者福祉関係のNPOで、ちょうど敬老の日に呼ばれて行って、話をしたことがあります。30分ほどだったのですが、シルバーの方が数十人集まっておられて、そこでシルバー向けに「和顔、愛語、慈眼」という話をしました。年をとったら「やわらかい笑顔と思いやりのある言葉と、そして優しい目が大事ですよ」と。そこで、話し終わって何か質問ありませんかと言ったら前に座っていた年輩の方が手を挙げまして、「じつは、自分は、若い時から非常に正義感が強くて、社会的な不正、とくに汚職とか収賄とか、そういう社会的不正があると、それがどうしても許せない、もう居ても立ってもいられない」と。そういう性格ですから、戦前に、その方は、後で聞いたら85歳って言ってましたから戦前はもう大人だったのですね、その戦前の20歳代のころ自分は、ちょっと、社会に対して批判的なことを言ったために、いわゆる特高(特別高等警察)という思想を取り締まる警察に捕まって、刑務所で殴る、蹴る、の虐待を受けて、片目を失明して今も左目見えないのです。それくらい世の中に不正があると許せなくて、ついカッとなる性格なのです。「最近は、それが高じて、妻にまで手が出てしまうのです、どうしたら良いでしょうか」という質問でした。

  おそらく奥さんという方も、80歳近い相当年輩の方だと思うのですけが、その奥さんについ手が出て暴力を振るってしまう、どうしたらいいでしょうかという質問をされたのです。その時に私がお答えしたのが、「あなたは社会的不正を許せないと言っているけれども、じつは心の中に、私的な憤りがあるんじゃないんですか。同じ怒りでも、公憤というのと私憤というのがあるのです」という話をしました。公憤というのは公の憤りです。私憤というのは私的な憤り。あるいは公憤とは理性的な憤りであり、私憤とは感情の入った個人的な憤りと言ってもいいでしょう。
  そこで「あなたは正義だといって、社会の不正を糾さなきゃいけないと言っているけれども、じつは心の奥底に、私的な不満なり憤りが溜まっているんじゃないですか」といって、先ほどの、4回も転職した若い青年のことを話したのです。いつも上司とぶつかっていたという人が、じつは父親に対して憎しみを持っていたことに気がついて、それを解決したら自分の上司との問題も解決したというケースがあるのですという話を、その方にしてあげたのです。そうしたら、その話を聞き終わった途端にその方が、大きな声で「わかりました!」と叫んだのです。「じつは、私も父親を殺したいほど憎んできました。父親を殺したいと思ってきました」。それで、大学を出たらともかく父親から離れたくて自分でアメリカへ行って留学した。それほど父親を憎んでいた。
  「これまで、自分はそういう社会的不正に対する憤りを、正義だと思っていたけれど、自分の方に問題があると今気がつきました」ということを、みんなの前で大きな声で話してくれました。85歳の男性だったのですが、この方も自分の心の傾向性というものに遅まきながら気がついたのです。つまり、社会的不正を糾さなきゃいけないという思いがあったのだけれども、じつは心の中では父親を殺したいというほど憎んでいた。そういう心の傾向性で見ると、世の中が全部偏って見えるということです。
会社の問題、家庭の問題、あるいは地域における人間関係の問題などいろいろありますが、もしかしたら自分の心の傾向性に原因があるのではないか、と振り返って見れば案外解決の糸口が発見できるのではないかと思います。 
責任転嫁ではものごとは解決しない
  今取り上げた「原因は自分にあり」という事例は別に特殊なケースではなくて、ビジネスでも、家庭でも、どこでもありうる話なのです。
  じつはあの有名な、松下電器を創業された松下幸之助さんも、「決断の経営」(松下幸之助著、PHP文庫)という本のなかで、そのようなことを書いています。この中で、松下さんは「事のならざるは自分にあり」ということを書いています。

  「熱海会談での感動」という、これは松下電器の歴史においては非常に有名な話なのですが、ちょうど昭和39年の不況の時、家電メーカーも不況になってテレビやら冷蔵庫やら売れなくなった。それで、これは大変だということで松下電器も全国の販売店や代理店の社長さんを熱海に集めて、実態をもう少し聞こうということで、懇談会をもったのです。全国から300社近くの社長さんが集まって、1泊2日の懇談に入った。それでみんなの実態を聞こうと思ったら、出るわ、出るわ、松下電器に対する愚痴とか、不満とか、批判ばっかりだったのです。
  松下電器の指導が悪いからずっと赤字が続いている。あるいは親の代から松下電器の製品を売っているのにちっとも儲からない、赤字続きだって。そういう批判的な言葉ばかりが出た。松下幸之助さんは、そんなことはないでしょう。それはあなた方の経営が悪いからだ。松下電器が悪いんじゃない、あなた方の経営が悪いからだということで反論した。1日目はそういうやり取りで終わった。2日目になった。2日目になっても相変わらず不満や愚痴が出る。どうしてくれるのだ。今まで松下電器のために一生懸命やってきたのに、ちっとも黒字にならなくて赤字ばかりだ。どうしてくれるのだという責め口調ばかりきた。 
  そこで、松下幸之助さんしばらく考えた、どうしてだろうと。ずーと考えてきたら、沸々とこみ上げてくるものがあった。そう言われてみればそうだなということを感じたらしいのです。その辺のいきさつがここに書かれてあります。

  私はこれまでいろいろと不平不満をぶつけられたことを振り返ってみた。それらの不平不満は一面、代理店、販売会社自身の経営に対する甘さから出てきたものと見ることもできる。だからそういう指摘もした。けれども静かに考えてみると、松下電器自身にも改めなくてはならない問題点がたくさんあるのではないか。それらの不平不満が出てくるというのはやはり、松下電器自身の販売の考え方、やり方に弱い物があるのではないか。そうしてみると、責任は松下電器にある。いや、その責任の大半が松下電器にあるのではなかろうか。私はそういう事をしみじみと感じた。反省しなければならないのは、松下電器自身である。販売会社、代理店さんからの信頼を受けているうちに、知らず知らず慢心の心が出てきたのではないか。それが今日の姿を生み出した原因の全てではないのか。

  事のならざるは自分にあらずして他人にあるのだ。というような考え方を一部持っているものがあるとするならば、それは大変間違いである。私どもはついつい、代理店さんがもっとしっかりして下さったならばと思うこともあるが、これも大変な間違いであった。やはりその原因は私ども自身にあることを考えなくてはならないのだ。

  つまり、松下幸之助さんはそのときに、松下電器を創業して松下の電球を売り始めた頃の苦労を思い出したというのです。「一流の電球を作っていますから、一流のメーカーと同じ値段で売って下さい。値下げはしないで売って下さい」と言った時に、卸問屋から「そんなことはできない」と言われた。まだまだ新興の会社なのに、価格通り売って下さいなんてとんでもないと言われたけども、松下電器を育てるつもりで頑張って下さいということでお願いしてまわった結果、今日の繁栄が築かれたのだということを思い出した。
  そしてその当時の販売店、あるいは代理店のご苦労のことを思い立った時に、松下さんはつい涙が出てきて、みんなの前で「申し訳なかった」と反省した。そして、300人近い販売店、代理店の社長の前で涙を流してハンカチで拭いながら謝ったそうです。そうしたらそれが伝わったらしくて、ある代理店の社長さんが、「いや、そうは言っても自分たちにも経営の甘さがあった。松下電器ばかりを責めていちゃダメなんだ。自分たちにも問題があった」。と、相手の方も反省をしはじめた。そして最後は涙々となり、お互いこれから松下電器のために全員一丸となって頑張っていこう。ということで熱海会談は感動のうちに終わった。そしてそのあと、この不況を何とか乗り切って、松下電器はその後の発展の礎をさらに築いていくことができた。そういうようなことが、この本に書いてあります。 
自己責任を腑に落とす
  このように、景気が悪くなったり、会社の販売が思うようにいかなくなった時は、だいたい他人を責めます。相手を責めるのです。相手が悪いと。特に社内で会議をしてもそのようなことが起こります。なぜ売れないか?販売部の人は製品の設計が悪いという。設計している人から見ると、営業が良くないという。お互いに相手を責める。そういうところは、だいたい責任転嫁なのです。自分の問題じゃなくて、相手が悪いから会社の景気悪いのだと言い、お互いに責め合っている。そういう会議は何回やっても良い結果生まないのです。なぜか。松下幸之助さんの話と同じで、販売店が悪い、松下電器が悪い、とお互いに相手を責めているうちは真の解答が出ないのです。そうではない、自分の方が悪かった申し訳なかったと反省するところから、相手も申し訳なかったと言って、お互いに信頼関係がそこで築かれる。だから、自分の問題としてとらえた方が物事は解決が早い。自分の問題としてとらえて反省するところから、さらなる発展繁栄がはじまるのです。

  ただし、大切なのは、こういう自己責任の話を単に知識として吸収するということでなく、いかに腑に落とすかということです。これはただ頭で理解すればいいというものではありません。今、この話を読んで「なるほど、自分の問題としてとらえればいいのか」と頭で考えるだけだったら、その程度です。問題は、頭で考えることではありません。こういうことは「そうか!!そうだったのか!!」と、いかに腑に落とすかということが大切なのです。腑に落とさないかぎり、それは自分の周りの変化として現れて来ません。本当に府に落とすと、実際の行動につながりますから、周りに変化が出ます。松下さんが、「この不況は自分の経営上の誤り、慢心が原因だった」と腑に落として謝ったら、販売店の社長もかえって反省したというように。

  会社の人間関係も、地域の人間関係も基本は同じでしょう。どんなに納得のいかない不愉快なことがあったとしても、自分の問題として捉えれば、そこから新たな道が開けていくということです。 

まちづくり、人づくり(その1)

まちづくりと人の心
  ある地域で、再開発事業に取りかかったころのことです。最初は地域の皆さんで、協議会という組織を作って再開発の勉強会をしていました。ひと通りの勉強も終わって、いよいよ準備組合という任意の組織をつくり、具体的な施設計画や事業計画の検討に入ろうということになりました。任意の組織とはいえ、具体案の検討ですから、手順を踏んで地権者の皆さんの了解を得ながら進めていかなければなりません。
  早速に、大まかな測量や建物調査をすることになりました。誰が住んでいて、どういう権利関係で、借家人がいるのかいないのか、営業状態はどうなのか、などですが、最初の調査ですからあまり立ち入った内容にはなりません。まだコンサルタントとの信頼関係がそこまで出来ていませんから、慎重にやり始めたわけです。そういう中で、再開発に対してはあまり乗り気ではない立ち食いそば屋さんがいました。乗り気ではなかったのですが、準備組合を作るのは反対しないし、測量や建物調査ぐらいはしてもいいよと言ってくれていました。
  ところが、順番が来て、その立ち食いそば屋さんの測量をしようという段階になって訪ねたところ、「俺のところは、ほっといてくれ」と、態度が急変しました。「おかしいな、今まではそれほど強烈な反対でもなく、結果だけ教えてくれたらいいという状態だったのに、どうしたのでしょうね」と準備組合の役員の人たちと頭をひねりました。
  なにがあったのだろうと、話し合っているうちに、その人に関わるいろいろなことがわかってきました。そのそば屋さんは、過去にその商店街の役員をしていたことがありましたが、酒癖が悪くて商店街の旅行のたびに、飲んで暴れて旅館のテーブルや食器を壊して、みんなに迷惑をかけたので、役員から下ろされてしまっていたということがあったのでした。もともと人付き合いのあまりいいほうではなかったのですが、その後はますます近所とは付き合いが遠のいてしまっていたのです。

  たぶんこの立ち食いそば屋さんは、役員を下ろされたという過去の古傷があったために、機会があればいつかはまた地域の役員になりたいと思っていたのでしょう。なぜなら、その準備組合の役員の決定があった頃から、彼の態度が急変したからです。言葉には出さなかったのですが、自分ももしかしたら役員の声がかかるかと期待していたのかもしれないのです。考えてみれば、自分の中学の同級生が役員に入り、さらに後輩までが理事長になったのに、自分は全く蚊帳の外に置かれたので、寂しい思いをしたのかもしれません。
   「そうか、彼も役員に入れてやればよかったなあ」と他の人たちが気づいても後の祭りです。その後は事業が進むにつれて、ますます態度を硬化させ、そのうちに「強引な再開発反対」という看板まで、自分のお店の前に出すようになってしまいました。 
心の奥にある反対の理由
  さらに、深い事実もわかってきました。この人の父親という人はとても怒りっぽい人で、いつも彼を怒鳴っていた。だから中学時代は、一見おとなしく見えたけれども、何か気に入らないことがあると、すぐにかっと来るタイプであまり親しい学校の友人もいなかったということでした。
  そういう人は当然、屈折した感情を心に持ちながら大きくなります。とくに父親に認められてきませんでしたから、自分の出番を求めています。誰かに認められたいという思いを持ちながら、大きくなっています。
  再開発事業における地権者の方への対応というのは、このように一人一人の心理を読んでいかないと、うまくまとまりません。もし、このそば屋さんの過去の事実をもっと深く事前に知っていれば、もう少しうまい対応ができ、この方をここまで窮地に追いやることがなかっただろうと反省しきりです。

  街づくりにおいては、最初のボタンの掛け違いが、あとあとまで尾を引き、次第に感情的な反対になって、やがてどんな条件を出されても受けいれないという事態まで進んでしまうのが現実なのです。なぜそうなるかというと、通常はこのような心理を深く読むところまでいかずに、この人は反対だから、あまり事を荒立てないでおいて、最終的には少し金でも積んで押し切っていこう、という方向に行きがちだからです。
  しかし、もしこの人がみずからの欠点に気づき、みずから人生の修正ができたら、それこそ自分から再開発賛成となるはずです。地域の人とも協調した気持ちの良いまちづくりが可能となるはずです。まちの再開発と同時に、自分自身の人生の再開発も可能となるからです。真のまちづくりもそこまでできていくと、本物になるのではないでしょうか。ゆえにまちづくりには、心理学も必要だと思うのです。
  このように、主体的な人生を生きる人たちが集まってはじめて、活気のあるまちづくりが可能になると思います。そのためには、各人がその事業を通して、みずからの欠点に気づき、みずからがその欠点を修正していくということが必要になってまいります。まちづくりは、人づくりでもあるというわけです。
 
  ところで、みずからを修正するには、原因を自分に求める内省的方法による場合と、日々の行動に重点を置く目的志向的な方法による場合と、大きくは二通りが考えられます。これから、その二つのケースを取り上げてみます。まずは自分に原因を求める場合として、一人の落ちこぼれ青年が、会社を救い、地域活性化のきっかけとなった話からはじめます。 
原因は自分にあり
  数年前になりますが、ある市のまちづくりで、20代後半の青年と知り合いになり、時々相談に乗ってあげたりしていていました。その彼がある時、住宅関係の部品を作っているメーカーに転職をしたという話を聞いて、良い会社に入ったなと思っていたのです。たまたまその頃、彼に会いましたら、「私も良い会社へ入れてよかったです。残業も苦になりません。夜の9時、10時まで働いているんですけど、全然残業が苦にならないんです。」と言って喜んでいたのです。それがその年の9月ごろでした。ところがそれからちょうど3ヶ月ほどして、年末私のところへ電話がかかってきました。「ちょっと会ってほしい、相談したいことがある」と言われて、何だろうと思って会ったのです。もう年末ぎりぎりの12月29日だったと思うのですが、「何?」と聞いたら、「今の会社辞めたくなった」というのです。「え?あんなに喜んでいたじゃないの。あんなに良い会社に入ってよかったって喜んでいたじゃないの。どうして?」と聞いたところ、「ええ、最初はそうだったんですけど、入って2ヶ月ほど経ったころ、経理の女性から会社の経営内容を聞いちゃったんです」というのです。その会社は、大きな借金を抱えているということがわかった。それから、粉飾決算もしているらしいということまでわかった。そしたら途端にやる気がしなくなったというのです。社長を信用してこの会社に入ったのに、その社長に対して不信感が出てしまったという。でもはじめのうちは、「いや、こういう考えじゃいけない。今日も頑張ろう」と、朝の出掛けに思い直して、会社に行くのだけれども、会社で社長と顔を合わせると、「この社長の借金を返すために、働いているのか」という思いが出てきて、途端にやる気が失せてしまう。一日終わるとぐったり疲れてしまう。という状態が1ヶ月近く続いて、もうこれ以上は続かない、そう思って、それで私の所へ相談に来たのでした。  「でも、いまどき会社をやめても景気が悪いから、すぐ再就職するのは難しいんじゃないの」と私は言ったのですが、「もうこれ以上は続けられません」と言って、受け入れないのです。「じゃあ、君は今の会社を辞めてどんなことができるんだ」と聞いたところ、ずっと営業しかやってきていないというのです。しかも、彼はその時28歳だったのですが、大学を出てから4回転職をしているのです。大学出て6年しか経っていないのですが、4回転職をしているのです。
  どうしてそんなに転職したのかと聞いたら「上司に恵まれなくて」というのです。最初入った会社は、猛烈サラリーマンというのでしょうか。仕事、仕事、仕事の部長で、もうとにかく仕事しかやらない人で、身体が持たなくて辞めましたというのです。2つ目はと聞いたら、2つ目の上司も、すぐカッとくる人で、怒りっぽくて、怒鳴られてばかりで、自分の神経が持たなくて辞めましたと言いました。3つ目はと聞いたら、3つ目の上司は、話題が低俗でついていけなかった。いつも「飲む、打つ、買う」そんな話題ばかりでついていけなかった。尊敬できなくて、辞めましたというのです。4つ目はと聞いたら、やたら細かい上司で、ちょっとミスをしただけで、あぁでもないこうでもないと、重箱の隅を突っつくような細かいことをいわれて、いつもピリピリしていなければならなくて、ここも辞めましたっていうわけです。 
心の傾向性に気づく
  「じゃ、今度も同じだね」と私は言ったのです。そうしたら彼は「いや、今度は違うんです。今度は社長が私をだましていたんです。私に本当のことを言ってくれなかったんです。こんな借金抱えているなんて知りませんでした」と言います。「でも、会社の事情、社長の事情はあるかもしれないが、私から見たら、社長とあなたの関係は今までと同じにしか見えないよ」と言っても、彼はそうじゃないと言い張る。しばしそういうやり取りをしたあと、「ところで、君はお父さんとどういう関係なの?」と聞いたのです。そうしたらぽろっと、「私は父を憎んでいます」というのです。じつは、小学校までは彼は父親と仲が良かった。ところが中学一年のときに父親が浮気をしたというのです。その浮気がばれて、お母さんがそれを悲しんで自殺未遂を計った。で、彼が言うには「そのとき自分は、この父は絶対ゆるせないって思いました」と。それ以来1日も早く父親から離れたいという思いで過ごした。父親に対する反発と憎しみ、そういう感情をずっと引きずって生きてきた。それで、大学を出たらすぐに親元を離れて就職をした。ところがうまくいかなくて、その後4回転職をしたと、そういう経緯だったのです。そこで私は彼に言いました。「あなたは今の会社を辞めてもう1回再就職をしても同じ事を繰り返すよ」と。「必ずまた上司とぶつかるよ」と言ったのです。
  どうしてかというと、「あなたの心には父親に対する反発心、憎しみがあるから。父親に対して憎しみを持っている人は、会社で上司に対しても必ずそういう目で見てしまう。必ずまた反発するよ」と言ったのです。だから、この会社を辞めてもう1回再就職するのなら、父親と和解しない限り、私は君の再就職は賛成できないないと言った。彼はたぶんそれでピンときたのだと思います。わかりましたと言っていました。ちょうど年末年始の休暇中だったので、すぐ実家に帰って父親と話をしてみますと言って別れました。

  それから2週間ほどして、1月の半ば頃です。彼から電話があって、ちょっと報告がしたいというので会ったのです。聞いてみるとお正月休みに実家に帰って、父親と三日三晩酒を飲みながら話をしたという。そうしたら、父親にも父親なりの理由があった。父親も辛い人生を歩んできたのがわかった。ちょうど浮気事件を起こした頃は、会社が倒産の危機にあって、非常に辛いときで自分の気持ちもすさんでいた。済まなかったと、父親も謝ってくれた。そうしたらなんかぽろぽろ涙が出てきて父親を許せる気になった、というのです。父親の辛かった人生を理解できたら、許せたという。
  それで、最後は和解して帰ってきましたという報告をしてくれたのです。私も嬉しかった。それからさらに2週間ほどして、まちづくりの会合で、彼が勤めている会社の社長とたまたま会ったら、「いやー、良い青年に入ってもらいました」というのです。つい2、3日前も彼とゆっくり語り合って、「この会社を、ふたりで頑張って日本一の会社にしよう」と、午前3時くらいまで話し合って涙々だったのだと社長が報告してくれました。その後彼は一所懸命また営業に精を出しました。新製品の売り上げにも貢献できて、会社が発展しはじめたのです。その発展の話は、自然にその地域の人たちに伝わっていきました。私もその話をその後、人づてに聞いたのでした。

一隅を照らす

地域で輝く人
  どこのまちづくりにおいても、多くの人望を集めて地域に貢献している人は必ずいます。下町の、ある駅前の再開発で、とりわけ誰からも尊敬されている、穏やかで世話好きの人がいました。喫茶店のマスターですが、地域の借家人の世話をよくしていた方で、「あの喫茶店のだんなが理事をやっているのなら」と、何人かの借家人は、その事業に賛成してくれました。
  その喫茶店のマスターも若いときは辛かったといいます。高校を出て、東北から東京に出てきて働いていた会社が倒産したのです。しかし、不運を恨むことなく再就職し、一生懸命働きました。しばらくして脱サラで喫茶店をはじめました。スタートはお店を借りて夫婦で始めましたが、やがて自分のお店を持ち、家族を養い、子供を大学まで出して、そして町会や商店街の役員もやって、いつも笑顔を振りまいていました。3階建てのビルを建てて、もう住宅ローンの支払いも終わっているだろうに、70歳を過ぎてもなお、こつこつと働いていました。「私は、誰に見られても恥ずかしくない生き方をしてきました。一生懸命努力してきました。結果として感じるのは、努力は必ず報いられるということです。『天は、自ら助くるものを助く』といいますが、本当にそうですね」。それがその方の持論でした。
  人当たりがいいので、地域のいろいろな人が出入りし、その地域の要のように光り輝いている、そんな喫茶店でした。
そこに出入りするさまざまな人々の人間関係の情報のおかげで、権利調整もスムーズに運んだのです。おかげでその再開発は思ったより、早く事業が進みました。
  とても勉強家で、その喫茶店に行くたびに政治や経済のことが話題になりました。あるとき、ブラジルのことが話題になって、時々その喫茶店にやって来るブラジルの青年のことを聞きました。とても性格が良くて、日本人より情に厚いというのです。いい人にはいい人が寄ってくる。そんな感じがしたので、私は、あるとき、その人を紹介してもらいました。以下は、その日系ブラジル人2世のFさんから、直接聞いた話です。 
出稼ぎブラジル人の苦しみ
  「奴隷のようにこき使われました。そして、いじめられました」と、Fさんは、その当時を思い出して、涙を流しながら私に語りました。ブラジルから来ている、いわゆる出稼ぎといわれる人たちが、私たちの知らないところで、どのような扱いを受けているのか、そのときはじめて私は知りました。もちろん、ブラジルから来た人すべてがそうだったわけではないでしょうが、しかし、少なくともそのFさんの働いていた電機部品工場では、7人の日系人のほとんどがそのような扱いを受けていたといいます。しかし、すでにこのつらい問題をクリアして一年以上たっていたので、Fさんはこの話を明るい表情で私に語りました。30数年前に、私も旅行でブラジルに行っていたことがありましたので、話題が盛り上がり、この話をしてくれたのです。

  私が会ったとき、彼はブラジルから来て7年目でした。はじめは長野県の建設会社で働いていましたが、仲間がいなくて孤独だったので、ブラジル人の仲間からの情報でいまの工場に転職したのでした。つらい日常は、初日から始まりました。初日に、先輩から教えてもらったとおりに部品のハンダ付けの作業をしたのに、主任から「何やってんだ!違うじゃないか」と怒られたのです。教えてくれた先輩は、何の弁護もしてくれず知らん振りです。他のブラジル人も同じように怒られ怒鳴られているのに、誰も助けようとはしないのです。「ああ、この会社の人たちは誰も責任を取らないのだ」。50人ほどいたその工場の日本人の工員は、ほとんどみんなトラブルを避けて、責任逃れをしていたのです。一日が終わって、帰りがけに挨拶をしても、誰も挨拶を返してはくれません。完全に無視されたのです。
  二日目になっても事態は変わりませんでした。朝「おはようございます」と挨拶をしても、誰も挨拶を返してくれず、仕事に関しては、相変わらず怒鳴られっ放しです。一日終わるとくたくたでした。時に足蹴にされたりするので、一週間もしないうちに、この会社を辞めようと思うようになりました。しかし、次の当てもないので、仕方なくその工場に残ったのです。 
3つの誓い
  なんとかこの事態を乗り切りたいと思ったFさんは、3つの誓いを立てました。ひとつは祈ることです。熱心なカトリック信者であったFさんは、毎朝、「上司や同僚と仕事がうまくいきますように」と祈りました。二つ目は、どんな理不尽なことでも反論しないで受け入れるということです。3つ目は、少なくとも仲間のブラジル人とは結束していこうと、毎月一回、仲間7人とFさんの家で焼肉パーティーをやることにしました。
  はじめ、祈りは何の効果もありませんでした。ところが、ある時ふと上司や同僚の固有名詞を出して祈れば通じるのではないかと思い、一人ひとりをイメージしながら、相手の心に向かって祈りました。するとその日の朝、工場に着いて「おはようございます」と挨拶すると、なんと初めて先輩から「おはよう」という挨拶が返ってきたのです。「ああ、祈りは具体的なほど通じるのだ」とFさんは自信を深めました。二つ目の、受け入れるということについては、どんなに怒られても、どんなに自分に原因がないことであっても、「すみませんでした」という言葉を出したのです。一日終わって工場を出るときにも、「今日も一日ありがとうございました」と深々と頭を下げたのです。そして三つ目のパーティーについては、毎月一回7人の仲間がFさんの家に集まり、焼肉パーティーという形で情報交換をしました。このときブラジル人に対して比較的好意を持っている日本人を、一人か二人必ずゲストで招いて、楽しい交流を重ねていったのでした。 
職場で輝く人
  こうして数ヶ月たったころ、焼肉パーティーに来ていた本社の課長が、Fさんの本棚を見て、「Fさんは、こういう勉強をしているんだ。そういえば、Fさんが来てから工場の雰囲気が良くなったよね」と、言ったのです。Fさんはうれしくて思わず涙ぐんでしまいました。Fさんの本棚には聖書をはじめとして、仏教書や心の教えを説いた本などが何冊も置いてあったのです。
  その数日後、工場でいつものように仕事をしていると、ずーと意地悪していた主任が「ちょっと、ちょっと」とFさんを呼びました。なんだろうと思っていぶかっていると、「Fさんは、名前をタケシっていったよね。だから、これからは『タケちゃん』って呼ぼうかな」と親しみを込めて言ったのです。Fさんは、うれしくてうれしくて、涙を流しながらその日一日仕事をしました。その後、その主任は明らかに変わりました。何かとFさんの相談に乗ってくれたり、いろいろ向こうから声をかけてくれたりするようになりました。「そのうち、Fさんと一緒にブラジルに行ってみたいね」とも言ってくれるようになったのです。工場全体の雰囲気も和気あいあいとして、とても働きやすいものになっていきました。 
一隅を照らす
  『一隅を照らす』という言葉があります。いま自分に与えられている家庭や職場で、光り輝くという意味です。喫茶店のマスターも自分の不運をかこつことなく、会社が倒産したあと、次の職場で頑張りました。自暴自棄にならず、逃避もしなかったのです。そして、独立して喫茶店を始めました。つい、私たちは、自分の不運を他人のせいにしたり、環境のせいにしたりしますが、ものごとは他人のせいや環境のせいにしても解決はしません。「その問題は、いまのあなたにとって必要なことであり、そこから学びなさい」と、天から言われていることが多いからです。

  Fさんのとった心の態度もそういうことでした。環境から逃れることなく、愚痴を言わずに受け入れ、祈り、仲間と仲良くするというように、自分の考え方を変えることによって、みずから光り輝き、結果的に環境を変えていったのです。このように、愚痴ることなくひたすら自助努力するものには必ず天からの応援があります。「天は、自ら助くるものを助く」。これは普遍的な法則です。

  一人ひとりが与えられた場所で、自分に与えられた環境を受け入れて自助努力をしていったとき、家庭も職場も社会も、光り輝いていきます。国全体も輝いていきます。これを『一燈照隅、万燈照国』といいます。

聞き方に段階あり

反対者に耳を傾ける
  まちづくりにおいては、地権者の意見をよく聞くということは何よりも大切です。ともすると事業を急ぐあまり、推進することに意識が行きがちですが、事業を急げば急ぐほど、できるだけ多くの人たちの意向を把握しなければなりません。あの人は自分勝手な人だ、他人と協調できない人だ、地域でも嫌われている人だ、と言いたくなるような人もいますが、まちの再開発というのはそういう人たちとも接点を見出していかなければ成り立ちません。
とりわけ反対者に対しては、充分に耳を傾ける必要があります。なぜ反対しているのか、その本音を探らないと先に進めませんから、会って聞かなければなりません。
  ある時、ある再開発地区の反対者への対応を依頼されたことがあります。

  会ってみると、事業推進メンバーへの強烈な反発があることがわかりました。とりわけ事業推進の中心人物である、一人の町会役員(準備組合の理事でもある)への反発が特に大きく、この状態ではもうこれ以上先に進むのは危険だなという印象です。
  「一度、町会の再開発説明会に出ただけで、賛成者に組み込まれていることがわかった時点から、彼らのやり方に不信を持ちました」「仲のよい人間ばかり集まって、会合のあといつも酒を飲んでいるという話だが、神社のお祭りの集まりとは違うのだ。コミュニケーションも大事だが、事業は利害に絡む話。もっと真剣にやらなければいけないと思う」「町会と事業とは根本的に違う。町会は単なる親睦でいいが、再開発事業というのは計画やその発言に責任が伴う。にもかかわらず、私を安心させるような話は一切してこない。私だってむやみに反対しているわけではない。私を納得させるだけの説明がないだけ。なのに、私のことを事業に参加しないわがままな男だというぐらいにしか思っていない」
  もちろん、こういう意見はすべて正しいとは限りませんが、少なくともその人は初期のスタート時点でそういう判断をしたということは理解しなければなりません。そういう本音を語ってくれるだけでも、脈は充分にある。たっぷり2時間ほど相槌を打ち、たまに合いの手を入れて帰ってきました。1週間ほどして再度訪問しましたが、ほとんど前回と同じような不満や不信が出てくる。このときも、聞くことは聞いたが、少しだけ反応しました。しかし、基本的にその人の言っていることは理不尽ではない。彼の立場に立てば、ごくごく正論。ただ、推進派は推進という立場で相手を見るから、わがままなやつだという判断をする。他方、反対者は、自分のプライドや面子にこだわるから、相手を受け入れられない。要するに会話が成り立たないだけ。こういうときに大事なのは、反対意見であっても、それを受け入れて聞いてあげるということです。

  何回か会っているうちに私とは次第に打ち解け、相手の準備組合の理事への反発も会話の中では少しは薄らいできた。そこで、「あの理事も、直接会ってお詫びかたがたいろいろ説明したい、と言っていますから一度会ったらどうでしょう」と打診しました。結果、私が間に入って3人で一杯やろうというところまで、こぎつけました。もちろんそれまでの会話の内容は、逐一その理事には伝えてきました。
  そこで、その理事に事前に十分説明し、「とにかく相手の言うことをまず受け入れてあげてください。自己主張は今回はしないで、自分の言いたいことは次回にして、今回は相手を受け入れることに徹しましょう」と何度も確認をして、当日を迎えました。

積極的に聞くことの難しさ
 しかし、結果は失敗でした。準備組合の理事は、最初のうちは相手の言うことをよく聞いていました。ところが、反対者の方が自分の過去の人生の苦しみとでもいうべき事を語ったときから、状況は変わってしまいました。反対者の方は、自分の過去の人生で辛い思いをしたことを語りました。そのとき初めて知ったのですが、奥さんがフィリッピン人であること、最初のうち親戚は全く受け容れてくれなかったこと、そのことで息子や娘が学校で随分いじめられたこと等、を語ったのです。彼は、本音を語ったのです。私は「これはチャンス!」と思いました。なぜなら準備組合の理事も息子の登校拒否で随分苦しんだと他の人からの情報で知っていたからです。ともに苦しみを共有し共感できれば、関係改善に最高のきっかけになること間違いがないからです。
  ところが、推進派の理事は、さらっと話題を変えてしまいました。「ああ、そうでしたか。そんなことがあったのですか」と上辺の反応をし、自分の息子のことに話題が波及するのを避けるかのように、「自分がお世話していたボーイスカウトの家庭でも、そういうことを聞いたことがありますね」というだけで、後は自分が係わっていたボーイスカウトの別の話に話題を持っていってしまいました。ああ、この人は自分の息子のことには触れたくないのだ、と横で聞いていた私は判ったのです。そこから先は、ほとんど上辺の会話になってしまいました。もう反対者の意見はほとんど受け容れていないことは見え見えでした。
 相手を理解しようとすると話題がそちらに行ってしまうからと、逃げようとする姿勢がつい出てしまうのでした。自分の家庭の弱点に触れられたくないので、受け容れようとするより、自分の心をガードすることに意識が行ってしまっているのです。 
心の中のこだわりが聞く力を弱める
  自分の心に何かこだわりがあると、どうも他人の話を積極的に聞くということが難しいようです。とりわけ、プライドが高く、自分の体面にこだわる人には、その傾向があります。結局、次の日に「理事の方は、どうでしたか」と聞きに言ったところ。「彼は変わっていない。相変わらず調子がいいし、建前ばかり言っている」「あれじゃ、みんなはついていけないんじゃないの」、の一言でした。
その後も、何回か通い、反対者をつなぎとめて、2~3度3人でのコミュニケーションの席を作りましたが、もうそれ以上の効果はありませんでした。理事は自分のこだわりが捨てきれず、上辺の会話しかしませんから、一緒に再開発をやろうよという雰囲気にはとうとうなりませんでした。
  その地区の再開発は、いまだにそういう状態のまま一進一退を繰り返し、全く進んでいません。最初のボタンの掛け違いがずーっと尾を引いていることは間違いありませんが、じつは、その地区のほかの理事たちも、反対者対策はコンサル任せで、自分たちの問題とは考えない、他人任せの人たちばかりだから、状況が変わらないのです。
  自分たちのまちづくりだという感覚が乏しいから、消極的な人たちの意見を真剣に聞こうともしないのです。真剣に聞けばもっと具体化するはずなのに、というのが私の率直な感想です。 
聞く力と営業力
  この、聞くことの大切さは、まちづくりだけでなく、どんな仕事にも通用します。ビジネスにおける営業も同じです。売り込もうとするより、まずはよく聞くことです。

  これは、また別の東京の下町地域での話ですが、私の知り合いで、ある信用金庫の渉外担当の人がいました。彼は、その信金の全支店の中で、ずっと預金獲得トップを続けていました。「なにか秘訣があるんでしょ」と聞くと「いやー、なにもしていないんですよ。ただこの下町の地域を周っていると、昼間は寂しい老人が多いんですね。息子やお嫁さんは共働きで家にいないし、孫たちも学校や塾で家にいません。だから、昼間は寂しい老人が多くて、私が行くと待ってましたとばかりに話し掛けてくるんですよ。しかも愚痴や不満ばかり。私はただその愚痴や不満を聞いているだけなんです。私にも年取った親がいるものですから、他人事とは思えなくて玄関先で聞いているうちに、つい涙ぐんだりするんです。そうしたら次に行くと、部屋に上げていただいたりして、そこでまた共感してしまうんです。ただ聞いているだけなんですが、そのうちに『解約してあんたのところに預金しよう』と言ってもらえるんです」という話でした。 
子供は親の鏡
  また、あるとき、まちづくりの現場で、子供を持ったお母さんから次のような質問を受けたことがあります。「うちの子は、私の言うことを聞かないんです。学校から帰ってもすぐに遊びに行ってしまいます。『先に宿題やってから遊びに行きなさい』と言っても、まったく言うことを聞きません。遊びから帰って来ても今度はマンガを見たり、テレビを見たりで、ぜんぜん勉強しないんです。どうしたらいいでしょうか」と。
  おそらくこの人ばかりでなく、世の中の多くのお母さんたちは子供が親の言うことを聞かないといって嘆いているのではないでしょうか。この質問を受けたとき、私は次のように答えました。

  「よく言われますね。子は親の鏡であると。ということはいま子供が言うことを聞かないというのは、実はあなたの姿でもあるわけです。あなたこそ子供のことに耳を傾けていますか、ご主人のことに耳を傾けていますか。案外聞いているようで聞いていないことも多いのですよ。たとえば、表面的には聞いているようでまったく聞いていない人がいます。首を縦に振っているんだけれども、心では、はじいてしまってまったく受けつけていない人です。いわゆる面従腹背というタイプですね。
 これより少しましな人は、自分に都合のいいところだけを聞いている人です。自分に都合のいいことは聞くけれども、都合の悪いことは聞いていない、という人です。こういう人は選択的に聞いているといってもいいかもしれません。
  ところが、注意深く聞く人がいます。たとえ自分と意見が違っても、相手のことを理解しようとそれこそ熱心に聞こうと努力する人がいます。こういう人は素晴らしいですね。会話がうまくいくケースです。
  でももっと素晴らしい人がいるんです。それは相手の言うことを感動しながら聞く人です。目をきらきら輝かせて聞く人ですね。こういう聞き方ができたら、おそらくどんな人間関係もかなり改善するはずですよ」と、こういう話をしたのです。 
子供の話を感動して聞く
  1ヶ月ほどして、その女性に会ったところ、次のような報告をしてくれました。
「あの話を聞いたあと、家に帰ってずーっと自分のことを振り返ってみたのです。そしたら言われたとおりでした。私は子供のことに耳を傾けていなかったということに気づきました。例えば、子供が外から帰ってきて私のところに来て『ねー、お母さん、お母さん』と意気込んで何か話そうとするのに、私は横を向いたまま『いま、夕食の用意で忙しいから後にして』と排他的にしていたのです。しかも、ふんふんと首は振っていてもなにも聞いていない自分に気づいたんです。むしろ心の中で『ああうるさいな、もう』と子供との会話を拒否していたのです。
  それで私は子供の言うことをよく聞こうと心に決めました。その日から、子供が私に話しかけてきたときには、正面を向いて子供の目の高さにしゃがんで、子供の両手を握って眼を見て、感動をもって聞くようにしました。『ああ、そう!学校でそういうことがあったの!すごいわね!』毎日毎日そういうふうにして感動して聞くように心がけました。そういうことを2週間くらい続けたでしょうか。そしたら子供が変わってきたのです。いい子になっちゃたんです。学校から帰ってきて自分から勉強するようになりました。私がなにも言わなくても自分からすすんでやるんです。それから、すごく素直になりました。今までは『外から帰ったら手を洗おうね』と言っても全く聞く耳を持たなかったのですが、最近は『はい!』って素直なんです。この子を悪い子にしていたのは私だったんですね」 
聞き方に段階あり
  いくつかの事例を述べましたが、聞き方に応じて回りは展開していくようです。最初の再開発準備組合理事のケース、これはさしずめ首は縦に振っていても、心でははじいてしまっている面従腹背、あるいは都合の悪いことは聞かないで、選択的に聞いているという事例でしょう。これでは、状況の改善は見込めません。信金の営業マンの例は、熱心に聞いているという段階です。その熱心さが成果につながりました。そして、最後の親子のケースはまさに感動して聞くとどういう効果がでるか、という素晴らしい事例です。
 
  もしビジネスにおいてもっと発展したいと思うなら、あるいは家庭でもっと良い人間関係を築きたいと思うなら、まず相手の言うことを感動もって聞くという努力をしてみることです。特に、この人とは何としても関係改善をしなければならないというような人がいるなら、その人に対してそういう努力をしてみることです。しばらく努力を続けると、自分の周りで必ず何かが変化します。そして、結果的に自分も変わっていきます。

  じつは、このような『聞き方に段階あり』という話が、10ほど年前からロングセラーになっている『7つの習慣』(キング・ベアー出版)という本に出てまいります。

閾値を超える

再就職の苦労とトイレ掃除
  10年ほど前、まだ日本経済が不況からなかなか立ち直れなくて、あちこちで社員のリストラや給料カットが吹き荒れていたころです。定年退職をして、全くの畑違いの印刷会社に再就職した方と話をする機会がありました。すでに、その印刷会社に勤めて数年が過ぎていましたが、そのときに聞いた話です。

  私は、定年と同時にこの印刷会社に再就職しました。印刷に関しては全くの素人だったのですが、たまたまこの会社が、シール印刷という特殊な印刷機械を導入したばかりというので、マニュアルを見ながら操作すればできるだろうと思って、その機械運転の現場を希望しました。幸いにして採用され、現場に配属されました。ただ、機械操作に関しては問題がなかったのですが、ひとつ誤算がありました。
  というのも、この会社はアメリカのロサンジェルスに支店があって、その支店から外国人が3人、この新しい機械の技術を習得するために派遣されてきたのです。この3人の指導を任せられることになりました。アメリカ人、メキシコ人、ブラジル人の3人です。私は、英語も、スペイン語も、ポルトガル語もできませんから、身振り手振りで教えました。上司から、この3人はほっておくと怠けるので、教育も兼ねて、トイレ掃除をさせろと言って来ました。しかし、外人はトイレ掃除など自分の仕事ではなく、それは清掃会社の仕事だと、全くやろうとしません。仕方なく、私は、外人がやったように見せかけるために、毎朝7時半に会社に来て、1時間トイレ掃除をすることにしました。
  最初の1ヶ月ぐらいは、イヤでイヤで仕方がありませんでした。でも毎朝1時間やり続けました。そのころは、「馬鹿だな、そんなことは、若いのに任せればいいのに」とか、「いい歳して、よくやるよ」とか、馬鹿にされることが多かったです。
  ところが3ヶ月経ったころには、「根性あるんだな」という人が出てきました。
  半年ほどたったころには、「お疲れさん」とか、「ご苦労さん」と声をかけてくれるようになり、周りの反応が変わってきたのです。さらに一年ほど経ったころ、社長が朝礼で「掃除とは、ただ汚れを落とすだけでなく、磨きこむことである」と言ってくれたのです。嬉しかったですね。社長は見ていたんだと。
  さらに、はじめてから1年半ほど経ったころ、工場長が率先して「みんなで工場の磨きこみをやろう」といい出しました。この工場には、パンチパーマの若者で、遅刻の常習犯がいたのですが、この若者が「ご苦労さん」といってくれるようになり、遅刻もしなくなったのです。機械もピカピカになってきました。
  2年ほどやり続けたら、不思議とみんなが話しかけてくれるようになりました。自分でも穏やかになったと思います。いやな上司とも仲良くなれ、一杯飲みに行こうと誘ってくれるようになりました。印刷業界は全体的に不景気なのに、うちの会社はすごく景気がいいのです。

  はじめは、イヤイヤやっていましたが、そのうちに淡々とできるようになりました。そして、2年ほど経ったころには、自分の中で何かが変化したのです。他人のことが気にならなくなったというのでしょうか、自分が穏やかになったというのでしょうか。自分の中で、不思議な自信と安らぎが出てきたのです。 
環境整備で売上げ4倍増
  掃除ということに関しては、経営コンサルタントの一倉定氏が有名です。中小企業の社長ばかり数千人を顧客に、獅子奮迅の活躍をした名コンサルタントでしたが、残念ながら数年前に亡くなられました。その一倉氏の環境整備(掃除)に関する熱の入れ方は尋常ではありませんでした。その著書から一部引用します。(「新・社長の姿勢」一倉定 経営合理化協会)

  レストランのA社に私が初めてお伺いしたのは、10年以上前のことだった。当時のA社は、業績は下降の一途で、大幅な赤字に泣いていた。付近にいくつもレストランができたからだという。
  私は「何が競争相手のせいだ。自分でやることもやらずに、売上げが減ったもないものだ。性根を入れかえて環境整備をやれ、こんな汚い店をお客様が嫌がるのは当たり前だ。それをやらずに、店の宣伝に頼るとは怠け者のやることだ」と決めつけたのである。
  この日からA社長は心を入れかえて環境整備に力を入れだした。それからは3ヶ月に一回くらいA社に行き、店ごとの採点と注意を行なった。2回目の時には売上げは少し上がっていた。
  3回目のときである。店ごとの私の採点をグラフに記入した社長は「アッ」とばかり驚いた。私の採点の上がり具合と、店ごとの売上げが見事に一致していたからである。採点の上がった店は売上げ増が大きく、採点のあまり上がらない店の売上げはわずかしか上がっていなかったからである。
  これによって、A社長は、自分は何をすればいいかをはっきり自覚したのである。このころになると、社長をはじめ社員一人一人の心構えがかなり違ってきていた。社員の一人一人が、環境整備だけでなく、「どうしたらお客様にもっとサービスをよくすることができるか」を考えるようになったのである。
  A社全体に「心の革命」が起きたのである。
 それから10年間、A社の売上げは文字通り、ただの一ヶ月の低下もなくなく上がり続けた。客席回転数は、全店(8店舗)で通常6回転である。A社長は「6回転なんかできないはずなのに」と首をかしげるのであった。

  一倉氏は、この書籍の中で「この不思議な現象は、単なる偶然とはどうしても思えないのである。整備された建物が、清浄で強力な精気(オーラ)を発し、これがお客様にも届いているとしか考えられない」と言っている。 
シュリハンドク
  ところで、インドのお釈迦様の時代、弟子にシュリハンドクという人がいました。この人は、物覚えが悪くて、お釈迦様の説法を聞いたそばから忘れていくので、仲間からも馬鹿にされていました。同じ釈迦教団にいた兄はとても頭がよく、物覚えも良かったのに、弟は全く修行にならないのです。このままでは教団に迷惑をかけるからと、兄は弟に還俗を勧めました。さすがに、シュリハンドクは落ち込んで、悲しんでしまいました。そこを、たまたま通りかかったお釈迦様が見て、「シュリハンドクよ、良いことを教えてあげよう。これから、毎日、箒で庭を掃除しなさい。『塵を払わん、垢を除かん。塵を払わん、垢を除かん』といってやり続けなさい」と教えたのです。
  シュリハンドクは、毎日毎日やり続けました。そしてあるとき、シュリハンドクはハッと気づいたのです。「ああ、これは人間の心も同じだ。常に掃除をしないと汚れていくんだ」と。その後シュリハンドクは教団の中で「阿羅漢」という悟りに達したと仏典に遺っています。 閾値を超える
  「閾値(いきち)を超える」という言葉があります。臨界点を超えるという意味に近いものですが、要はコツコツとやり続けると、どこかで質的変化を起こすというものです。「蓄積の効果あるいはキューミュラティブ効果」という場合もありますし、「一線を超える」という場合もあります。
 先に紹介した定年退職のサラリーマンの方の体験も、また一倉氏の例やシュリハンドクの話も、どこかで質的変化を起こしたのです。だから、自分を変え、周りを変え、会社を変えていったのです。努力の量が質に転化したということでしょう。
  この閾値を超えるということは、掃除だけに起こることではありません。学問でも、仕事でも、芸術やスポーツでもあらゆる分野で起こります。 
世界の松下電器
  松下電器の創業者の松下幸之助氏もまた、掃除の大切さを説いた人です。松下政経塾でもしばしばそういう話をしたことが、政経塾の講義録にも残っていますが、その松下氏が経営ということに関して、閾値を超えた瞬間がありました。昭和の7年、世の中全体が不況で労働争議も頻発し、経営者の誰もが苦労していたころ、ある人からある宗教の教団本部に誘われたことがありました。そこで見たものは宗教的エネルギーの素晴らしさです。数多くの信者が嬉々として奉仕活動を行い、本殿が隆々と建っていく様を見て、この宗教も経営という観点で見れば素晴らしい発展だ。しかし、自分のやっている企業経営と何が違うのだろうと思い巡らしたのです。
  そのことが頭から離れなくなり、一人帰路についた途中でも、そして家に帰ってからも、真の経営とはいかにあるべきか考えに考えに考えて、考え抜いたのです。寝床に着いたあとも目が覚めてまた考え続けたのでした。そして稲妻のごとく目覚める瞬間がありました。

  「某宗教は人びとの心を救い、安心を与えるのが使命だ。しかし、電気製品を提供するという自分のやっている事業もまた宗教以上に聖なる尊い事業だ。社会から貧困をなくすという聖なる使命を持った事業だ。自分の経営こそ某宗教以上に発展せねばならない。それにもかかわらず閉鎖縮小とは何事だ。それは経営が悪いからだ。自己にとらわれた経営。正義にはずれた経営。聖なる事業をやっているという使命感に目覚めない経営。自分はこの殻から脱却しなければならない」「そして、水道水のごとく、誰もが安価で手に入る電気製品を大量に供給しなければならない。これが私の使命だ」(『私の行き方 考え方』松下幸之助 PHP文庫) 
 有名な「水道哲学」誕生の瞬間です。経営の神様・松下幸之助氏誕生の瞬間です。その後、松下電器は日本の一流企業になったのみならず、世界企業へと発展していったのです。松下氏が、経営とはいかにあるべきか考え、考え、考え抜いて、閾値を超えた瞬間からそれは起こったのです。 
これからのまちづくり  今の時代、企業は自分の会社の物質的利益だけを考えればよいとうことではすまなくなってきています。地球環境のことも考えなければなりませんし、地域社会への貢献も考えなければなりません。極論すれば、企業はいかにあるべきか、状況の変化に合わせて考え方を変えていかなければならない時代です。 
 同じようにまちづくりも、ただ道路をつくればいい、建物をつくればいいという時代ではなくなりました。持続的な良いまちをつくるには、単なるハコとしての建物だけを考えるだけではすまない時代になりました。どういうコミュニティを作らなければならないのか、人々の連帯感をどう作り出せばいいのか、ということを真剣に考えなければならない時代を迎えています。高齢者対策、治安対策、災害対策等を考えるなら、ますますそういうことは必要になってきます。ということは、当然地域に住む人たちの意識や考え方も変えていかなければなりません。それが健全な地域社会をつくる鍵となります。 
 かつて、ある地域の再開発事業で、その再開発に批判的な地権者の方と話したことがあります。彼は言いました。 
 「このまちの再開発は必要だと思います。しかし、参加しないのを陰で悪者のように言われるのは納得できません。じゃー、その推進している人たちは、きれいな建物ができたら即、理想的なまちができると思っているのだろうか。今までのようなコミュニティが持続すると思っているのだろうか。そんな単純なものではないでしょう。新しく入ってくる住民のほうが圧倒的に多くなるのですから、いままでのような地域社会を実現しようと思ったら、相当な熱意が必要だと思います。なのに、いま推進している人たちからそういう熱意を感じないんです。だから、私は参加しない。
もし本当に理想的なまちづくりをしたいのなら、いまからでも、地域の掃除をするとか、道路わきにお花を植えるとか、壊れた自分の家の塀を直すとか、いろいろやることがあるはず。あるいは、一人ひとりが自分たちの夢を語っていくはず。その延長上に新しいまちづくりが始まるのではないでしょうか。いまからそういうエネルギーを出していかなければならないのに、彼らはそういう行動さえしていない。だから私は彼らを信用できない」 
 彼が言いたかったのは、「推進派の人たちは、コンサルタントやディベロッパーに依存して、形ばっかり追っている。本当に必要なのは良いまちをつくろうという理想と行動ではないのか。コンサルタントやディベロッパーに任せておくのではなく、自分たちで主体的に考え、主体的に行動するべきだ。地域の人たちに対して自分たちの言葉で理想を語るべきだ」ということだったように思います。
「もし、自分のところに来て、正々堂々とその理想を熱く語ってくれたなら、私も賛成したのに」ということでした。 
 その地域の再開発はその後、中断し、そして冷めて行ってしまいました。結局、中心となる人たちが、考え方において、行動において質的変化を起こせなかったのです。誰も熱く語れなかったし、誰も閾値を超えることができなかったのです。  以上

心は磁石

夫の涙
  中小企業経営者向けの、あるセミナーで講師をした時の体験です。その経営者セミナーは夫婦同伴のセミナーで、私は、男性陣のセミナー担当でした。主に経営者の「志」を鍛えるもので、まず心構えを提示し、それについて深く考えてもらい、その後みんなでディスカッションするというスタイルの一泊研修です。全部で10テーマあり、その一つひとつをじっくり考えて、そのあとディスカッションし、深く腑に落として自分自身の経営のあり方を見直していくというプログラムです。
  初日、3つ目のテーマの思慧を終えて、グループでディスカッションを始めたとき、一人の経営者の方がハンカチを出して涙をぬぐっていました。「さっきから、どういうわけか涙が出てしょうがないのです」といって、自分の発言の順番が来ても、言葉にならない状態でした。その方は、自動車整備工場を経営されているのですが、なかなか経営が思わしくなくて参加されたのでした。奇妙なことに、そのセミナーが終了するまで目を赤くしたままでした。よほど感動か感謝が深かったのでしょう。少なくとも私にはそう見えました。 
妻の涙
  すべてのプログラムが終了して、控え室に戻ったとき、別室で「経営者の妻の心構え」というテーマでセミナーを行っていた別の講師も戻ってきました。ごく自然に、お互いのセミナーの成果を反省も込めて語り合っていたとき、相手の講師から、「いやー、今回のAさんの奥様はものすごかったですよ。ご主人に対する反省と感謝が深まって、もう感謝・感動の一泊でした。嗚咽しながら、ずーと涙を流し放しでしたよ」と聞いたのです。私は「え?」と思いました。Aさんというのは私の部屋で突然涙を流し始めた自動車整備工場の経営者の方で、別室の「妻の心構え」で涙を流していたのが、そのAさんの奥様だったからです。
  「その奥様が涙を流し始めたのは何時ごろでした?」と聞きますと、午後3時ごろかなといいます。ちょうど私の部屋で、ご主人であるAさんがハンカチを出して涙を流し始めた時間です。私は納得がいきました。以前から、このご夫婦は夫と妻の力関係が逆転しているのを知っていたからです。そして、問題は奥様にあると気づいていたからです。じつは、経営する自動車整備工場も奥様の実の父親が創業したもので、それを婿養子であるAさんが引き継いだのです。だから典型的な婿養子タイプの夫婦で、妻が実権を握り、体も声も大きく、いつもご主人を尻に敷いていたのでした。その男勝りの奥様が深く反省して、ご主人に感謝ができるようになったというのですから、これは大きな驚きです。 
妻の反省の効果
  事実、この研修後、明らかに奥様は謙虚になりました。「まったく私が間違っていました。本当に主人に対しては小ばかにしていたところがあったのです。男らしさがない、力強さがない、決断力がない、と心の中で責めてばかりいました」。その間違いに気づいたのです。奥様が謙虚になると、不思議とご主人の行動に自主性が出てきました。積極的にコストを下げるための経費節約をし、社員に対しても明るく声をかけるようになりました。すると、社員たちも顧客に対して「その後、自動車の具合はいかがですか」と、すすんで電話がけをするようになったのです。「おかげで、お客様も増え、売上も伸び始めました。さらに、うれしいことに、いつも反発しあっていた二人の娘がとても仲良くなったのです」。このご夫婦の喜びはひとしおでした。 
共時性
  ここにあるのは、心の世界の不思議です。あるいは心の世界の神秘といっていいかもしれません。婿養子として、いつも弱気で、消極的でおどおどしていた経営者が、奥様の深い反省と感謝によって、ひとり立ちすることができ、会社の経営内容も良くなり、家族間も平和になったのです。奥様の深い反省と感謝が別室のご主人に伝わり、さらに家族全体にこのような成果を生み出したのです。心理学者のユングはこのような現象を「共時性」と呼んでいます。同じような現象が、全く同時に別の場所で起こることをいうのですが、ユングはこれは偶然ではなく法則であると洞察しました。 
繋がっている心の世界
  似たような話は、他にもあります。ある若い女性から相談を受けました。「主人が浮気をして、家に戻ってこないのです。私は一生懸命に尽くしているのに、主人は全く見向いてもくれません」。この女性は、浮気をして自分を苦しめるご主人を責めるばかりです。まだ子供もいないということなので、私は、彼女が通常家にいて何をしているのか尋ねました。すると、彼女は小説家の卵で、家でずーと小説ばかり書いているというのです。しかも、不倫小説や三角関係の葛藤など、そんなものばかりを書いているのでした。彼女は自分の心の中に、すでに色情地獄をつくっていたのです。その波動がご主人に伝わっているのは明らかです。「あなたは馬鹿だ。あなた自身がその種をまいているんだ。もうそんな変な小説を書くのはやめなさいそして、もっと清純なことを考えるようにしなさい」と厳しく言って、『クリスマス・キャロル』や、『素晴らしきかな人生』というビデオを観ることを薦めたのです。彼女は深く反省しました。涙を流して反省しました。すると、一週間もしないうちに、ご主人が「家の飯が食べたくなった」とふらっと家に帰ってきたのです。 
重重無尽
  ところで、こういうことに関して仏教では、「大宇宙に網のようなものがかかっていて、人間というものはその網の、縦と横の網が結び合わさった結び目なのだ」、という考え方があります。これを「重重無尽(じゅうじゅうむじん)」といいます。ここに書いてきた「婿養子を取った我の強い妻の話」「不倫小説ばかり書いてきた妻の話」もまさに重重無尽です。すべて人間の心は繋がっているということの実証です。ある意味で、ユングが洞察したことは、すでに2600年前に釈尊が見抜いていたということかもしれません。 
心は磁石
  『スピリチュアル・マーケティング』(ヴォイス社刊)という本があります。これは、「ビジネスのマーケティングにはスピリチュアルな要素(心の法則)が働いていて、心は磁石のごとくにお客を引き寄せ、またお客を引き離す」ということを実証している本です。いま、ここに紹介した話も、まさにスピリチュアル・マーケティングの実証です。じつは、ミッション③のヘアーサロンの繁盛の話も、ミッション⑧のY薬局の繁盛の話も、すべて心の法則そのものなのです。スピリチュアル・マーケティングそのものなのです。「心の世界はすべて繋がっている」という前提があるからこそ、いろいろなものを引きよせるのです。  心はマイナスもプラスも引き寄せる
  結局、心は磁石ということですから、マイナスもプラスも引き寄せます。自動車整備工場の妻が、我が強くて夫を尻に敷いていたとき、主人は自己確立ができないでいました。二人の娘たちも仲が悪くて困っていました。しかし、妻が目覚めたとき、すべてが好転しました。マイナスの磁石がプラスに変わったのです。
  同じように、不倫小説ばかり書いていた妻からは、マイナスの波動が出ていたから、夫が浮気をしていたのです。しかし、彼女が反省をしたときから、波動が変わりました。プラスのものを引き寄せるようになったのです。 
 まちづくりにおける関係者の合意形成とは、まさにこういう世界を日々経験しながら進行していきます。コンサルタントとしての自分の心次第でどうにでも展開していくものです。
ある意味では、まちづくりコンサルタントというのは、まちづくりに対して目に見えない大きな責任を負っているといえるでしょう。

感動が人を動かす

製薬会社からの電話  前回のY薬局の話の続きです。売上が順調に伸びていって、次第に豊かになってきた頃、東京の製薬会社から電話が入りました。「企画部の者ですが、いまJR駅に着きましたので、これからそちらに伺います」。ええ!!なんなのだろうと、Yさんは不思議に思いました。
  しばらくしてやってきた製薬会社の人は「お店の写真を取らせてください」と言います。「ええ?こんな古ぼけたお店をですか?」「その古ぼけたお店がいいのです。Yさん、お店のその辺に立ってください」と言いつつ、会社の人はYさんをそこここに立たせて、店内の写真を何枚も撮りつづけました。「次に表(おもて)の通りも撮らせてください」「ええ!!表といったって、誰もいませんよ」「それがいいんです。誰もいないところがいいんです」。そのようなやりとりをしながら、しばらく世間話をした後、その会社の人は写真撮りを終えて帰っていきました。
  それから2週間した頃、その製薬会社から再び電話がかかってきました。「じつは、来月の第4土曜日の午後、東京に来てもらいたいのです。旅費や手当てはもちろん出します。日帰りもできますから」「何のご用でしょうか」「ちょっとした会合に出てほしいのです」。Yさんは、ああ、そうですか、と軽く返事をしてしまいました。 
体験発表
  その土曜日の日、東京駅に迎えに来てくれた製薬会社の人と一緒に向かったところは、大手町のサンケイホールでした。Yさんは次第に不安になってきました。その不安な気持ちは、ホールに着いたとき頂点に達しました。会場に貼りだされたプログラムを見ると、有名大学の医学部や薬学部の名誉教授の講演とともに、体験発表者としてYさんの名前が載っていたからです。「ええ!こんな話は聞いていませんよ」と言うと、「だましたわけじゃないんです。はじめに正確に内容を言ってしまいますと、たぶん来てもらえないと思ったものですから。ただ、あのライフバランスという薬がどうして売れたのか、そのことを話してもらいたいのです」
  聞くところによると、このライフバランスという薬、全国でY薬局が一番に売れているというのです。東京の繁華街の大規模薬局や有名薬局の売上の何倍も、ダントツのトップでこのY薬局で売れているというのです。前回のミッション⑧で話した、肺に水が溜まった人が治ったというのもこの薬のおかげで、自然治癒力を回復するための薬です。この薬を、その製薬会社では、もっと大々的に売り込みたいと、この講演会を企画したのでした。会場には、全国から薬の卸問屋さんや大手の薬局の人たち数百人が、集まっていました。
  講演会が始まり、大学の先生方の発表も終わって、Yさんの出番になりました。Yさんは日頃どのようにしてお客様にこの薬を勧めているかを、体験談を交えながら、話しました。Yさんの話とともに、Yさんの店内の写真や、表通りの写真がスライドでつぎつぎと映し出されました。「こんな人通りの少ない、こんないなかのお店で、全国ナンバーワンの売上なのです」と紹介されると、会場から「おおー!!」という感嘆の声があがりました。 
自分の故郷を愛する心
  Yさんは確信をもって話しました。「お客様には、ただただ早く良くなってほしいという思いだけで、毎日応対させていただいています」。その慈悲の思い、その癒しの思いを、心を込めて話したのです。そして、最後に「私はこのまちが好きなんです。このまちに住んでいる人たちも好きなんです。ですから、このまちの人たちには、健康になってほしいのです」と故郷を思い浮かべながら話しました。講演会は大成功の内に終わりました。
  その後Y薬局には、全国の薬局から、電話や手紙で、問い合わせと相談がいくつも舞い込みました。そのなかには、会場でプロジェクターを操作していた、製薬会社の社員からの手紙もありました。「私は、当日、会場でプロジェクターを操作していたものです。Yさんの最後の言葉、『私はこのまちが好きなんです。私を育ててくれたこのまちが好きなんです。澄んだ空気、青い空、緑の山々、清らかな川、みんな好きです。このまちの人たちも、素朴で思いやりがあって大好きです。この地域の人たちに私は感謝します』という言葉を聞いて、私は恥ずかしながら涙を流してしまいました」。
このようにYさんの言葉は多くの人に感動を与えたのでした。その言霊は、Y薬局に来るお客様へのいたわりや思いやりと同質のものだったのでしょう。だから、つぎつぎと感動の連鎖反応を起こしていったのです。

いまや、このY薬局は商店街の中で超有名です。 
ねばり強く
  この、感動ということに関しては、私にも体験があります。再開発事業の地権者折衝を担当してまだ日の浅い、駆け出しのころのことです。事業の最終段階で、なかなか会えない人がいました。あともう二人という内の一人の方です。
  仕事は野菜の卸業を営んでいる人で、営業は別のところでやっていましたが、自宅がその地区内にあったのです。野菜の卸業というのは、朝早く家を出て、足立区のやっちゃ場に行き、そこで仕入れたものを、小売店や飲食店に配達するというものです。その人、Oさんは、もっぱら大きな飲食店中心に仕入れたものを配達して回っている人でした。朝早く家を出て、配達をして回り、家に戻ってくるのは、夜の8時過ぎという状態で、お風呂に入ってそのあと食事をするともうあとは疲れて寝るだけという日常です。何度行っても、いないことが多く、いても疲れているからまたにしてという状態が続いてこちらもほとほと困っていました。
若い奥さんはいつもすまなそうに「申し訳ありませんね。いつも、『来てくださった』ということは伝えているんですけども、なにせ疲れていると不機嫌になるので、私もあまり強くは言えないんです」と。つねにこちらの立場は理解してくれていました。
そうこうしているうちに、年末が近づいてきてOさんはますます忙しくなってしまい、全く再開発の話はできなくなってしまいました。 
夜討ち朝駆け  意を決して、そのとき行動を共にしていた区役所の担当係長と一緒に、その方の家に行きましたが、「まだ戻っていません」のひとこと。仕方なく、そのOさんの家の前で待つことにしました。待つことしばし、夜9時過ぎにOさんが帰ってきました。
「Oさん、ちょっとだけ話を聞いてもらえませんか」。「冗談じゃないよ。もう疲れきってるんだから、勘弁してよ」と逆に怒らせてしまいました。「今日もダメか」つい、ため息が出ます。
こうなったら、もう腹をくくるしかないと、覚悟を決めました。たまたま、区役所の係長が、そのとき自家用車に乗ってきていたので、そのままOさんの家の前で、自動車の中で夜を明かすことにしました。12月の後半に入ってかなり寒さも厳しいので、自動車のエンジンをかけながら暖かくして、朝を待ちました。Oさんの出掛けを狙ったのです。まさに夜討ち朝駆けです。
朝、といっても真っ暗ですが、4時ごろ、家の中の明かりがつきました。さあ、チャンス。書類を手にして外に出ました。待つこと15分。Oさんが出てきたので「おはようございます」と声をかけました。
Oさん、突然のことでびっくりした表情で「なに!ずっと待ってたの」。「そうです。どうしても、お話をしたいので」「ほんとに、家に帰らないで、ここにいたの?」「ええ、そうです」。
一瞬、私たちの顔を見比べながら、間をおいて、Oさん「そこまで、やられちゃ、しょうがねーなー。ちょっと待ってな。いまハンコ持ってくっから」。 
感動が人を動かす
  彼は、家の中から実印を持って出てきました。「俺、忙しいから、あんたにハンコ渡すよ。必要なところに押していいから」と言ってくれたのです。
「ほかの事に使ったらダメだぜ」と釘をさして、Oさんは、仕事に出て行きました。まだ、夜は真っ暗です。
 
  このとき、私は自分のやっていたことが無駄ではなかったと実感したのです。ほんとに、Oさんのハンコをもらうためには何でもしなければという必死の思いが天に通じたのでしょうか。私はOさんの態度に感動を覚えました。それほど深い信頼関係があるわけでもない、私のような若い人間を信頼してくれて、実印を手渡してくれたというその行為に。
  OさんはOさんで、私たちの真剣な行動に心を動かされたのでしょうが、私は逆に、私を信頼してくれたOさんの態度に感動したのでした。
私の中で、その感動は長く持続し、そのプロジェクトは構想提示からわずか5年という超スピードでで完成したのです。

Y薬局の感動的な話を聞いて、私も自分の過去のことを思い出したのでした。

  期待していた以上のことをされると、人間は感動するものです。感動が人を動かすのです。

元気なお店の条件

地方都市の中心商店街の衰退  地方都市の中心商店街の衰退が話題となって久しくなります。やれ、シャッター通りになってしまった、やれ、居住者が郊外に移転して人口が減ってしまった、しかも、買いたい物がない、魅力がない。その根源は、巨大な駐車場を抱えた郊外の大ショッピングセンターのせいだとしばしば指摘されます。  では、便利なショッピングセンターをなくせば、中心市街地に賑わいが戻るかというと、そう簡単ではありません。衰退しているほとんどの商店街は居住者減少、お店も後継者難、高齢化、無気力化しているからです。  そういう状況の中でも、全国的に見て、がんばっている商店街がいくつもありますが、それらは明らかに理由があります。後継者がいる、世代交代がうまくいっている、やる気満々の店長がいる、そういったお店がいくつも存在しているのです。だから、基本は、個々のお店のやる気次第。そのようなお店を核として、商店街の活性化が可能になるのです。商店街活性化の基本は、個々のお店が強くなること、やる気を出すこと、これ以外にはありません。 
お宅のルルはよく効く
  東北・青森県のある市にY薬局という、知る人ぞ知る薬屋さんがあります。外見は何の変哲もないごく普通の薬屋さんですが、このお店は多くの固定客を抱えていて繁盛しています。全体的に淋しい商店街の一角にあるのですが、「お宅のピップエレキバンはよく効く」といって、2?3軒の薬屋さんを通り越してわざわざY薬局に足を運ぶお客さんもいれば、「お宅のルルはよく効く」といって、大ビンのルルを数箱まとめ買いしていくお客さんもいます。こういう熱烈な固定客が何人もいてこのY薬局は大繁盛なのです。これは何か秘訣がありそうだということで、取材に行ったことがあります。お店は、Yさんご夫妻とYさんのご両親で経営しているお店です。「何かきっかけがあるのでしょうね」という、Yさん(奥様)への、私の問いかけから始まりました。 商売繁盛のきっかけ  「2年前の夏のことでした。急に父の具合が悪くなって、日に日に衰えていったのです。お店番をしている後ろ姿を見ても、とても小さくなってしまい、はーはー、ぜーぜーと苦しそうで、もしかしたら、このままあちらの世界に逝ってしまうのではないかと心配になりました」。  「ある夜、やさしかった父のことを思い出しながら、過去を振り返っていると『はっ!』と気づくことがあったのです。いつもはお店に来るお客様に対して『体を治すには、心の持ち方も大切ですよ。あまり自分のことばかり考え過ぎないで、まわりの人のことも考えるようにしましょう』といってきた張本人の自分が、いまは自分のことしか考えられなくなっている。ただただ『早く父に治ってほしい、早く父に治ってほしい』と、そればかりを考えている自分に気づいたのです。  しかも自分の心の底をじっと見つめてみると、本当に父の病気を心配しているのではなかったのです。本当は父がいなくなるとお店に出る回数が増えて私が困るから、という理由で父の病気の心配をしていたのでした。身勝手な都合のいい自分がいたのです。これではいけないと、その翌日から、私は自分の思いを切替えました。お店に来るお客様というお客様に対して『苦しい時ほど、他人のことを考えるようにしましょうね』『治りたい、治りたいと執着するより、心を解き放って他人のことに関心を向けたほうがいいですよ』などと心をこめてアドバイスしました。手がはれて痛いという人が来ればその人の手を両手で抱え込んでさすってあげたり、また悲観的になっている人がいれば、心のもち方の大切さを書いたパンフレットを紙袋の中に入れて差し上げたりもました。また薬の卸問屋さんにも電話して、自分の思いの変化を伝えていきました」。 
家庭調和が商売繁盛の源泉  ちょうど同じ頃、お父さんのことを心配したYさんのお母さんもまた、自分の夫に対して感謝が足りなかったことに気づいて、深く反省していたといいます。Yさんの気づきと、Yさんのお母さんの気づきと両方が相乗効果をもたらしたのでしょう。
数日して、気づいてみると、Yさんのお父さんはもとの元気ではつらつとした姿に戻っていたのです。再び冗談もよく出るようになったのです。 
 その直後、薬局の一日の売上が過去最高を記録したのでした。Yさんは言いました「家庭調和というのは豊かさの源泉ですね」。確かに「家庭調和」というのは、個人営業や家族営業のような形態の場合にはとくに重要な要素です。
だから、その後も売上は順調に伸びつづけたのです。  県外からの注文  1?2ヶ月経ったころ、県外からも電話で注文がくるようになりました。「どこでうちのことを聞かれましたか」と尋ねると、「福島のAさんの紹介で」という方が何人もいたのです。Aさんというのは、肺に水が溜まる病気で、あちこちの病院に行っても治らず、ワラにもすがる思いでYさんのところに電話をしてきた人でした。なんの薬も効かず、家でただ寝ているだけという人でしたが、たまたま病状をよく聞いてAさんの症状に見合った薬を、漢方を中心にして調合し、また自然治癒力を高めるための薬も一緒に入れて差しあげたのです。  そのAさん、病院から見放されて寝込んでいたのが、2週間で立ち上がり、3週間で買い物に出かけるようになり、1ヶ月したらスキーにまで行けるようになったのです。驚いたのは近所の人たちです。「どうして良くなったの?」と聞いてくる人たちに対する答えは、ただひとこと。「Y薬局の薬で治ったの」。それが口コミで伝わって、あちこちから電話注文が来るようになったのでした。 
バスツアーで来店  さらに驚くべきことが起こりました。ある地方銀行の新潟支店が、社員旅行の東北バスツアーの帰りに、バスごとYさんのお店に立ち寄って、みんなそれぞれ大量に薬を買い込んで行ったのでした。もちろん一人一人の健康状態を、Yさんは順番に聞いて対応していったのです。バスツアーのスケジュールの中には、その薬局での健康相談の時間も取ってあったからです。 
 このように、衰退する商店街の中にあっても、Y薬局のように強烈に光を放っているお店があるのです。 
念いがすべて  松下電器創業者の松下幸之助氏も書いています。昭和初期の不況で物が売れなくて困っている時に、松下の製品を売るために必死の努力をしたこと。松下の製品には、工場の工員たちの誠実な「念い」が込められ、また国民みんなに豊かになってほしいという販売店の強い願いが込められていたので、他社に負けずに売上が伸びてその不況を乗り切ったこと。そして製品は単なる物ではなく、作る人や売る人の「念い」が製品と一緒に伝わっていくのだということを実感したということ等。このようなことを松下氏は書いています。(『私の行き方 考え方』PHP文庫) 
 結局、モノをつくるにしても、モノを売るにしても、「念い」が大切だということです。ビジネスをするにはどういう念いで取り組むのかが問われるわけです。心の底から相手の顧客のことを考えているのか、単なるテクニックだけの顧客満足なのか。その波動は、明らかに商品と共にお客様に伝わっているということです。だから、やはり根本は自分に帰ってきます。「自分の心の奥底にいかなる念いがあるのか」ということです。相手の幸せを願う心、「利他の念い」こそ大切にしなければなりません。 
 ところが、世の中のほとんどの企業がこういう「お客様のために」とか、「顧客満足」という理念を掲げているのに、その結果は同じではありません。同じようなポリシーを掲げつつも、売り上げが伸びない会社や利益が出せない会社は山ほどあります。なぜでしょうか。  結果がすべてを物語っているという観点で言えば、その「念い」は『ニセモノ』である、あるいは『うわべである』、といわざるを得ません。 
 顧客満足を看板に掲げつつ、賞味期限を偽ったり、経理をごまかしたりして一時的に利益を上げることはできるでしょう。しかし、そういう『ニセモノの念い』はいつかは必ず露呈していくものです。○○乳業、○○スン、○○VA、等はそのことを物語っています。  だから、「念い」がどこまで純粋かが問われるわけです。「利他の念い」が純粋であればあるほど、それは必ず正しい行動に繋がります、ビジネスや社会の発展・繁栄につながります。まち起こしも、ものづくりも、サービスも基本は同じです。Y薬局は、その「念い」の大切さを、じつに明確に教えてくれました。 
 「動機善なりや、私心なかりしか」、これは『京セラ』創業者の稲盛和夫氏の言葉です。