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	<title>hosokawa blog</title>
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	<modified>2008-10-17T11:34:18+09:00</modified>
	<copyright>Copyright 2008</copyright>
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	  	<author>
			<name>ogawa</name>
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		<title>まちづくりミッション２０　まちづくりリーダーの条件「知か、情か」</title>
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		<modified>2008-10-17T11:34:18+09:00</modified>
		<issued>2008-10-17T11:34:18+09:00</issued>
		
	<dc:subject>General</dc:subject>		<summary type="text/html">	再開発危機の遠因
　前回（19）、一人のおとなしい地権者の情熱が再開発の危機を救ったという話をしました。じつは、これには伏線がありました。それが、今回テーマとするリーダーの問題です。
この再開発準備組合の理事長は、正確な意味では地権者ではありませんでした。奥さんが真の地権者で、彼は代理人でしかなかったのです。地方新聞社の元総務部長という立場の人だったのですが、奥さんの代理で出ているうちに、組織仕事ができて会議の運営も慣れているということで、理事長に推挙されたのでした。他に適当な人材がいなかったこともあって、消去法で選ばれたという状況でした。
　しかし、家庭の事情は少し複雑でした。この人は、総務部長に成り立ての頃に病院に入院したことがあったのですが、そこで、やはり入院してきていた女性と知り合い、意気投合して結婚したというのです。それが再開発地区の女性であったわけです。どういうわけか、彼は50歳代後半の初婚、相手の女性は、２０代後半の一人息子を連れた、再婚の女性です。ともにさびしい人生だったのを慰めあっているうちに一緒になろうということになったようです。しかも、彼は婿養子をいう形で、女性の方の戸籍に入ったのでした。
　その後、再開発の話が持ち上がり、奥さんの代理で出ているうちに、理事長に選ばれたという次第ですが、外では、機嫌よく理事長然としていましたが、家では奥さんに頭の上がらない弱気な男性だったのです。それは権利変換の時にはっきりと現れました。
	家庭内不和
　この理事長は、権利変換においては奥さんの了解のもと、一階の店舗床を取り、そこで喫茶店を開くつもりでした。途中まではスムーズにいっていて、自分は喫茶店のマスターになるんだと、銀座の喫茶店で張り切って修行をしていましたが、そのうち奥さんの連れ子の男性が再開発ビルでデザイナー事務所を開くということになり、喫茶店の夢ははかなく消えてしまいました。「なんで、血も繋がっていない男に、喫茶店のような道楽をやらせるんだ」と息子が母親に対して強烈に横槍を入れてきたのでした。
　そもそも、彼は結婚当初より家庭内ではまったく無力だったのです。それが、理事会や総会でのまとめる力に影響をしていたのは明らかです。会議の運営はそつなくこなしていたのですが、迫力が無いので、会合では求心力が段々と無くなっていきました。それが、地権者の不満そして近隣への対応のまずさに繋がっていったのです。「涙の総会」というのは、その理事長の力不足の後始末を、勇気ある一人の職人が救った舞台だったといえるかもしれません。
　表面的なリーダーシップは取っていましたが、内面はあまりボロを出してはいけないと再開発事業の間中ビクビクだったのでしょう。結果、彼は再開発ビル完成後まもなく離婚してしまいました。離婚されたというほうが正しいかもしれません。そして、悲しいことにその後まもなく、病気で亡くなったと風の便りに聞きました。
　
　家庭的に安定していない人は、リーダーとしては難しいものがあります。このケースのように婿養子で入ったために主体的になれない人のみならず、夫婦仲が悪い、子供の不登校で悩んでいる、親子関係がうまくいっていないというような場合、まちづくりのリーダーとしてリーダーシップを発揮するのは難しいものです。
　要は、心の中に引っかかりがあるために、他人の心理を見抜けない、先を見越した判断ができない、ということかもしれません。
	会社経営の失敗者
　さらに、自分の会社を発展させることができなかったというような経営者も、「家庭内不和」と同じように、リーダーシップを発揮するのは難しいものがあります。
　ある地区の再開発で、地権者対応の依頼を受けて理事長と初めて会ったとき、会社の経営者であると聞いていたわりには強いエネルギーを感じず、「理屈っぽくて感性の乏しい人だな、この人で大丈夫かな」と直感的に思ったことがありました。その直感が当たっていたことが、その後の事業の進捗とともに明らかになりました。
　この理事長は、父親の創業した出版関連の会社を引き継ぎましたが、自分の代でほとんど廃業寸前にまで衰退させたのです。もちろん、業界全体が不況だとか、不利な立地だとか、彼の言い分はあるでしょう。しかし、自分の会社を衰退させたというのは事実です。その理由もほぼわかります。おそらく、社員一丸となって汗水流して努力する情熱が無かったか、あるいは状況の変化に対応してイノベーションができなかったか、どちらかでしょう。この理事長の場合、おそらく両方かもしれません。汗水流す情熱もイノベートする智慧も無かったのかもしれません。にもかかわらず、最大の所有地面積で、地権者への影響力も大きいということが主な理由で、理事長に推挙されたのでした。
	反対者への対応
　この理事長は、人の心理が解っていないなーとつくづく実感したことがあります。私は主に、再開発に反対している人たちや消極的な人たちへの対応をしていたのですが、その対応に関してこの理事長と激論したことがありました。
　反対者の中で、１年ほど前まで再開発準備組合の理事を務めていた方で、その後、自分の意見が通られないからと、ほとんど理事会に出てこなくなった方がいました。その人に対する話のきっかけを作ろうと、週のうち２～３度足を運んで、会話をしていたのです。はじめのうちは拒否されたのですが、結構話好きで、一度きっかけができるといろいろな話題に乗ってくれました。もう７５歳を超えているのですが、いまだに自分一人でコンサルタント会社を経営し、働くのが好きだと夜遅くまで仕事をしていました。２０年以上前に奥さんを亡くしてその後は一人で自炊していましたから生活能力の高い人だったのでしょう。それは、戦後のどさくさのときに１７歳で小学校の臨時教員をして生活費を稼いだということにも現れていました。
　しばらく足を運んだ結果、その人が、ようやく「それでは今度の理事会に出てみようか」と前向きになって、理事会に出てきたのです。ところが久しぶりに出てきたものですから、ブランクの間の事情が良くわからないままに、また「早く個々の条件を提示するべきだ」と自分の持論を持ち出して来たのです。
私は「あ、困ったな」と思いましたが、本当に久し振りに出てきたのだから今日のところは仕方がない。これからまたコミュニケーションを重ねていこうと思っていました。
　しかし、理事長はそうではありませんでした。理事会終了後、私を激しく責めてきたのです。「何ですか、あれは。まったく変わっていないじゃないか。理事会に出てくるんだったらもっと前向きに発言してもらわなければ困るよ」「そうですが、今日のところは、久し振りに出てきてくれたんですから、それで『善し』としませんか。次回はもっと前向きになるようにまた会話を続けますから」。しかし理事長は、「ああいう発言をされると、ほかの人に悪い影響を与えるじゃないか。理事会に出てくるんだったらああいう発言をさせちゃだめだ。それがコンサルの仕事だろう。高いコンサルタント料を払っているんだから、もっとしっかりやってもらわなければ困るよ」といいます。
　私は、唖然と言う感じで彼の主張を聞いていました。３０分以上も激しくやりあったでしょうか。しかし対応の仕方については平行線でした。人間の心は少しずつ変化していくものという私の意見に対して、彼は「そんな悠長なことを言っている場合じゃないよ」というものでした。
　彼は、人間の心は一気に変わるものだと思っているようです。そして、それをやるのがコンサルタントの仕事だと思い込んでいるのです。再開発準備組合としての困難なことはみんなコンサルタントに任せている、そんな意識でした。みずからそういう未賛同者のところに行って話しをするとか、みずからが泥をかぶるというようなことは、まったく意識にはない人でした。知的であって、都市計画や再開発事業のことはよく勉強しているが、人をまとめていく徳が欠けている。そんな社長です。
　おそらくこうした態度ゆえに、自分の会社もつぶしたのではないでしょうか。
	人のせい、世の中のせい
　不都合なことは、すべてコンサルの力不足のせいにさせられました。また、事業の採算が悪いのも補助金が少ないからだと矛先は行政にも向けられました。近隣説明会でも、近隣の住民から意見やクレームが出ると、なぜもっと早くからこういう事態を見通して先手を打っていなかったのかと、またコンサルが責められました。一事が万事です。
　おそらくこの人は、何事も、人のせい世の中のせいにして生きてきたのではないでしょうか。こういう性格の人が理事長をやっていると、コンサル、地権者、行政、事業協力者等の関係者はなかなか一体感がもてません。常に内部調整にエネルギーが費やされてしまいます。
結局彼は、再開発も会社も、ともに事業であって、経営であるということが判っていなかったのです。
	事業とは経営である
　こういう無能な経営者に比べて思い出すのが、ある駅前の再開発の理事長です。この人も、父親の創業した会社を引き継いだ２代目経営者ですが、立派に会社を発展させていました。住宅関連の建具や小物を扱っている卸会社で、朝早くから、現場に向かう建築会社の社員や大工さんが立ち寄り、いつも繁盛していました。朝7時には店を開き、大体、9時には午前中のピークを越えて少し落ち着いて仕事ができるという、朝型の会社です。朝型の会社で景気が悪いということは、余りありません。朝の早い時間帯が特に活気がありました。
　この社長はいつも言っていました。「結局、再開発も事業だから、会社の経営と同じだと思う。要は、会社経営でも社員の心をつかむことが大事なように、再開発も地権者の心をつかんでおかなければ危ないよね」と。そして、次のような話をしてくれました。
	　自分は、いつも会社に来る前に、仏壇の前で手を合わせているんだけど、あるとき、お供えしてある仏壇のりんごから何か変な臭いがしていたので、持ち上げてみたら、中が腐っていた。外から見たらぜんぜん分からないのよ。でも中は腐っていた。このとき、私は思ったね。「ああ、社員の心もいつもケアしておかないと、知らず知らずのうちに、仕事に不満を持ったり、あるいはお客様に批判的になったり、ということになる。りんごと同じで、会社もいつの間にか中から腐っていくことがある」と。
　だから、再開発も同じだと思う。理事長だからと、会議ばかりに目が行っているといつの間にか、地権者の心が離れてしまって、再開発に不満が出てしまうことにもなる。そうならないように、自分は、町で地権者の人と会ったらできるだけ立ち話でもいいからコミュニケーションしているし、要注意と思う人とは、一杯やるようにしているんだ。
	　こういう人を、プロの経営者というのでしょう。
	足ることを知る
　その後、事業が進んで、最初の手続きである都市計画に向けての同意書を取りはじめたのですが、７０％の同意率を超えたところで、それ以上伸びなくなってしまったことがありました。行政からは、もう少し同意率を上げないと後々苦労するといわれて、努力はしていたのですが、なかなか思うように進まないことがありました。
そのころの理事会で、理事長が私に問いかけました。
「この地区で、再開発ができる条件は何でしょうか」と。
	　私は即座に答えました。「それは、ひとつしかありません。それは、皆さんが『足ることを知る』ということです」と。理事の中にも、まだ自分の条件に不満を持っていて、何とかしてくれと内々に圧力をかけてくる人がいたからです。
　それを聞いて、１１人の理事は、一瞬ぽかんとして「ええ？」という怪訝な表情をしながら、私の顔をちらちらと見ています。しばし、沈黙の時間がありました。そのあと、一人の理事が「そうだよなー。俺たち理事が欲をかいていては、一般の地権者に説得なんかできないよなー」といったとき、不思議とみんな異口同音にうなずいたのです。
　その瞬間、その場に暖かいものが流れ、雰囲気が変わったように思われました。それからしばらくして、同意率が８０％を越えて、無事、都市計画決定の手続き開始となったのでしたいま、その事業は、いま工事の真っ最中です。
	情のリーダー
　この駅前地区は、都内でももっとも生活保護世帯率の高い貧しい区の中にあります。土地の価格も安いですし、マンションの販売価格も高くありません。他の都内の再開発地区に比べると、最低ラインの条件かもしれません。結果、地権者への床還元率はかなり厳しいものがありました。そういう中で、「足ることを知れ」というのですから、ある意味、彼らの心の貪欲への「一転語」でもあったのです。しかしその人たちは、それを受け入れたのです。それは、感動的な瞬間でした。
　駅前とはいえ、貧しい地区です。この権利変換でよくまとまったと思います。そのまとまりのエネルギーの中心にあったのが、理事長の人間味です。味のある暖かさです。そしてその理事長を支えてきた理事会の情的な一体感です。
	　知的であっても、欲深い人がいます。また、貧しくても、「足ることを知る」という精神性の高い人がいます。どちらがまとまるエネルギーとなるかは、明らかです。
	　要は、こういうことでしょう。
　家庭内不和を抱える主体性の無い人は論外として、理事長には影響力というものが求められます。その影響力を知的に発揮するか、情的に発揮するかということです。経験的にいえば、ある地区の再開発がまとまるか否かは、理屈や知識の問題ではありません。むしろ、感情の問題、心の問題です。
	　結局まちづくりにおいては、「知」の理事長ではなく、「情」の理事長ほうが求められます。さらに言えば、知と情を兼ね備えた「徳」の理事長が求められます。

 </summary>
		<content type="text/html" mode="escaped" xml:base="http://www.elc-japan.com/modules/hosokawa_blog2/index.php?p=24"><![CDATA[	&lt;p&gt;&lt;b&gt;再開発危機の遠因&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　前回（19）、一人のおとなしい地権者の情熱が再開発の危機を救ったという話をしました。じつは、これには伏線がありました。それが、今回テーマとするリーダーの問題です。&lt;br /&gt;
この再開発準備組合の理事長は、正確な意味では地権者ではありませんでした。奥さんが真の地権者で、彼は代理人でしかなかったのです。地方新聞社の元総務部長という立場の人だったのですが、奥さんの代理で出ているうちに、組織仕事ができて会議の運営も慣れているということで、理事長に推挙されたのでした。他に適当な人材がいなかったこともあって、消去法で選ばれたという状況でした。&lt;br /&gt;
　しかし、家庭の事情は少し複雑でした。この人は、総務部長に成り立ての頃に病院に入院したことがあったのですが、そこで、やはり入院してきていた女性と知り合い、意気投合して結婚したというのです。それが再開発地区の女性であったわけです。どういうわけか、彼は50歳代後半の初婚、相手の女性は、２０代後半の一人息子を連れた、再婚の女性です。ともにさびしい人生だったのを慰めあっているうちに一緒になろうということになったようです。しかも、彼は婿養子をいう形で、女性の方の戸籍に入ったのでした。&lt;br /&gt;
　その後、再開発の話が持ち上がり、奥さんの代理で出ているうちに、理事長に選ばれたという次第ですが、外では、機嫌よく理事長然としていましたが、家では奥さんに頭の上がらない弱気な男性だったのです。それは権利変換の時にはっきりと現れました。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;&lt;b&gt;家庭内不和&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　この理事長は、権利変換においては奥さんの了解のもと、一階の店舗床を取り、そこで喫茶店を開くつもりでした。途中まではスムーズにいっていて、自分は喫茶店のマスターになるんだと、銀座の喫茶店で張り切って修行をしていましたが、そのうち奥さんの連れ子の男性が再開発ビルでデザイナー事務所を開くということになり、喫茶店の夢ははかなく消えてしまいました。「なんで、血も繋がっていない男に、喫茶店のような道楽をやらせるんだ」と息子が母親に対して強烈に横槍を入れてきたのでした。&lt;br /&gt;
　そもそも、彼は結婚当初より家庭内ではまったく無力だったのです。それが、理事会や総会でのまとめる力に影響をしていたのは明らかです。会議の運営はそつなくこなしていたのですが、迫力が無いので、会合では求心力が段々と無くなっていきました。それが、地権者の不満そして近隣への対応のまずさに繋がっていったのです。「涙の総会」というのは、その理事長の力不足の後始末を、勇気ある一人の職人が救った舞台だったといえるかもしれません。&lt;br /&gt;
　表面的なリーダーシップは取っていましたが、内面はあまりボロを出してはいけないと再開発事業の間中ビクビクだったのでしょう。結果、彼は再開発ビル完成後まもなく離婚してしまいました。離婚されたというほうが正しいかもしれません。そして、悲しいことにその後まもなく、病気で亡くなったと風の便りに聞きました。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　家庭的に安定していない人は、リーダーとしては難しいものがあります。このケースのように婿養子で入ったために主体的になれない人のみならず、夫婦仲が悪い、子供の不登校で悩んでいる、親子関係がうまくいっていないというような場合、まちづくりのリーダーとしてリーダーシップを発揮するのは難しいものです。&lt;br /&gt;
　要は、心の中に引っかかりがあるために、他人の心理を見抜けない、先を見越した判断ができない、ということかもしれません。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;会社経営の失敗者&lt;br /&gt;
　さらに、自分の会社を発展させることができなかったというような経営者も、「家庭内不和」と同じように、リーダーシップを発揮するのは難しいものがあります。&lt;br /&gt;
　ある地区の再開発で、地権者対応の依頼を受けて理事長と初めて会ったとき、会社の経営者であると聞いていたわりには強いエネルギーを感じず、「理屈っぽくて感性の乏しい人だな、この人で大丈夫かな」と直感的に思ったことがありました。その直感が当たっていたことが、その後の事業の進捗とともに明らかになりました。&lt;br /&gt;
　この理事長は、父親の創業した出版関連の会社を引き継ぎましたが、自分の代でほとんど廃業寸前にまで衰退させたのです。もちろん、業界全体が不況だとか、不利な立地だとか、彼の言い分はあるでしょう。しかし、自分の会社を衰退させたというのは事実です。その理由もほぼわかります。おそらく、社員一丸となって汗水流して努力する情熱が無かったか、あるいは状況の変化に対応してイノベーションができなかったか、どちらかでしょう。この理事長の場合、おそらく両方かもしれません。汗水流す情熱もイノベートする智慧も無かったのかもしれません。にもかかわらず、最大の所有地面積で、地権者への影響力も大きいということが主な理由で、理事長に推挙されたのでした。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;&lt;b&gt;反対者への対応&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　この理事長は、人の心理が解っていないなーとつくづく実感したことがあります。私は主に、再開発に反対している人たちや消極的な人たちへの対応をしていたのですが、その対応に関してこの理事長と激論したことがありました。&lt;br /&gt;
　反対者の中で、１年ほど前まで再開発準備組合の理事を務めていた方で、その後、自分の意見が通られないからと、ほとんど理事会に出てこなくなった方がいました。その人に対する話のきっかけを作ろうと、週のうち２～３度足を運んで、会話をしていたのです。はじめのうちは拒否されたのですが、結構話好きで、一度きっかけができるといろいろな話題に乗ってくれました。もう７５歳を超えているのですが、いまだに自分一人でコンサルタント会社を経営し、働くのが好きだと夜遅くまで仕事をしていました。２０年以上前に奥さんを亡くしてその後は一人で自炊していましたから生活能力の高い人だったのでしょう。それは、戦後のどさくさのときに１７歳で小学校の臨時教員をして生活費を稼いだということにも現れていました。&lt;br /&gt;
　しばらく足を運んだ結果、その人が、ようやく「それでは今度の理事会に出てみようか」と前向きになって、理事会に出てきたのです。ところが久しぶりに出てきたものですから、ブランクの間の事情が良くわからないままに、また「早く個々の条件を提示するべきだ」と自分の持論を持ち出して来たのです。&lt;br /&gt;
私は「あ、困ったな」と思いましたが、本当に久し振りに出てきたのだから今日のところは仕方がない。これからまたコミュニケーションを重ねていこうと思っていました。&lt;br /&gt;
　しかし、理事長はそうではありませんでした。理事会終了後、私を激しく責めてきたのです。「何ですか、あれは。まったく変わっていないじゃないか。理事会に出てくるんだったらもっと前向きに発言してもらわなければ困るよ」「そうですが、今日のところは、久し振りに出てきてくれたんですから、それで『善し』としませんか。次回はもっと前向きになるようにまた会話を続けますから」。しかし理事長は、「ああいう発言をされると、ほかの人に悪い影響を与えるじゃないか。理事会に出てくるんだったらああいう発言をさせちゃだめだ。それがコンサルの仕事だろう。高いコンサルタント料を払っているんだから、もっとしっかりやってもらわなければ困るよ」といいます。&lt;br /&gt;
　私は、唖然と言う感じで彼の主張を聞いていました。３０分以上も激しくやりあったでしょうか。しかし対応の仕方については平行線でした。人間の心は少しずつ変化していくものという私の意見に対して、彼は「そんな悠長なことを言っている場合じゃないよ」というものでした。&lt;br /&gt;
　彼は、人間の心は一気に変わるものだと思っているようです。そして、それをやるのがコンサルタントの仕事だと思い込んでいるのです。再開発準備組合としての困難なことはみんなコンサルタントに任せている、そんな意識でした。みずからそういう未賛同者のところに行って話しをするとか、みずからが泥をかぶるというようなことは、まったく意識にはない人でした。知的であって、都市計画や再開発事業のことはよく勉強しているが、人をまとめていく徳が欠けている。そんな社長です。&lt;br /&gt;
　おそらくこうした態度ゆえに、自分の会社もつぶしたのではないでしょうか。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;&lt;b&gt;人のせい、世の中のせい&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　不都合なことは、すべてコンサルの力不足のせいにさせられました。また、事業の採算が悪いのも補助金が少ないからだと矛先は行政にも向けられました。近隣説明会でも、近隣の住民から意見やクレームが出ると、なぜもっと早くからこういう事態を見通して先手を打っていなかったのかと、またコンサルが責められました。一事が万事です。&lt;br /&gt;
　おそらくこの人は、何事も、人のせい世の中のせいにして生きてきたのではないでしょうか。こういう性格の人が理事長をやっていると、コンサル、地権者、行政、事業協力者等の関係者はなかなか一体感がもてません。常に内部調整にエネルギーが費やされてしまいます。&lt;br /&gt;
結局彼は、再開発も会社も、ともに事業であって、経営であるということが判っていなかったのです。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;&lt;b&gt;事業とは経営である&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　こういう無能な経営者に比べて思い出すのが、ある駅前の再開発の理事長です。この人も、父親の創業した会社を引き継いだ２代目経営者ですが、立派に会社を発展させていました。住宅関連の建具や小物を扱っている卸会社で、朝早くから、現場に向かう建築会社の社員や大工さんが立ち寄り、いつも繁盛していました。朝7時には店を開き、大体、9時には午前中のピークを越えて少し落ち着いて仕事ができるという、朝型の会社です。朝型の会社で景気が悪いということは、余りありません。朝の早い時間帯が特に活気がありました。&lt;br /&gt;
　この社長はいつも言っていました。「結局、再開発も事業だから、会社の経営と同じだと思う。要は、会社経営でも社員の心をつかむことが大事なように、再開発も地権者の心をつかんでおかなければ危ないよね」と。そして、次のような話をしてくれました。&lt;/p&gt;
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　だから、再開発も同じだと思う。理事長だからと、会議ばかりに目が行っているといつの間にか、地権者の心が離れてしまって、再開発に不満が出てしまうことにもなる。そうならないように、自分は、町で地権者の人と会ったらできるだけ立ち話でもいいからコミュニケーションしているし、要注意と思う人とは、一杯やるようにしているんだ。&lt;/p&gt;
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　その後、事業が進んで、最初の手続きである都市計画に向けての同意書を取りはじめたのですが、７０％の同意率を超えたところで、それ以上伸びなくなってしまったことがありました。行政からは、もう少し同意率を上げないと後々苦労するといわれて、努力はしていたのですが、なかなか思うように進まないことがありました。&lt;br /&gt;
そのころの理事会で、理事長が私に問いかけました。&lt;br /&gt;
「この地区で、再開発ができる条件は何でしょうか」と。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　私は即座に答えました。「それは、ひとつしかありません。それは、皆さんが『足ることを知る』ということです」と。理事の中にも、まだ自分の条件に不満を持っていて、何とかしてくれと内々に圧力をかけてくる人がいたからです。&lt;br /&gt;
　それを聞いて、１１人の理事は、一瞬ぽかんとして「ええ？」という怪訝な表情をしながら、私の顔をちらちらと見ています。しばし、沈黙の時間がありました。そのあと、一人の理事が「そうだよなー。俺たち理事が欲をかいていては、一般の地権者に説得なんかできないよなー」といったとき、不思議とみんな異口同音にうなずいたのです。&lt;br /&gt;
　その瞬間、その場に暖かいものが流れ、雰囲気が変わったように思われました。それからしばらくして、同意率が８０％を越えて、無事、都市計画決定の手続き開始となったのでしたいま、その事業は、いま工事の真っ最中です。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;&lt;b&gt;情のリーダー&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　この駅前地区は、都内でももっとも生活保護世帯率の高い貧しい区の中にあります。土地の価格も安いですし、マンションの販売価格も高くありません。他の都内の再開発地区に比べると、最低ラインの条件かもしれません。結果、地権者への床還元率はかなり厳しいものがありました。そういう中で、「足ることを知れ」というのですから、ある意味、彼らの心の貪欲への「一転語」でもあったのです。しかしその人たちは、それを受け入れたのです。それは、感動的な瞬間でした。&lt;br /&gt;
　駅前とはいえ、貧しい地区です。この権利変換でよくまとまったと思います。そのまとまりのエネルギーの中心にあったのが、理事長の人間味です。味のある暖かさです。そしてその理事長を支えてきた理事会の情的な一体感です。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　知的であっても、欲深い人がいます。また、貧しくても、「足ることを知る」という精神性の高い人がいます。どちらがまとまるエネルギーとなるかは、明らかです。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　要は、こういうことでしょう。&lt;br /&gt;
　家庭内不和を抱える主体性の無い人は論外として、理事長には影響力というものが求められます。その影響力を知的に発揮するか、情的に発揮するかということです。経験的にいえば、ある地区の再開発がまとまるか否かは、理屈や知識の問題ではありません。むしろ、感情の問題、心の問題です。&lt;/p&gt;
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	  	<author>
			<name>ogawa</name>
		</author>
		<title>ELCまちづくりミッション19　情熱が危機を救う</title>
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		<modified>2008-09-16T11:44:39+09:00</modified>
		<issued>2008-09-16T11:40:01+09:00</issued>
		
	<dc:subject>General</dc:subject>		<summary type="text/html">	再開発の危機
　これまでの仕事の中で、一人の情熱が街づくりを進めていくのだと、実感することが何度もありました。特に印象に残っているのは、ある都内の再開発地区でのことです。私にとっては、ごくごく駆け出しのころの体験です。
　再開発事業を推進して行くには、できるだけ早いうちにディベロッパーを決めなければなりませんが、その地区では再開発後のポテンシャルがあまり無くて、民間のディベロッパーはほとんど興味を示さず、結果的にある公社がディベロッパーとして参加することになりました。自治体から請われて仕方なく参加したという状態のスタートです。
　何とか計画も進み、地権者の人たちへの具体的な数字の提示となった段階で、どうしても賛成できない人が出てきました。これでは、自分は賛成できないと、ゴネ始めたのです。しかし、基本の条件はみな同じです。その人だけ特別扱いするわけにはいきません。膠着状態が続いているころ、計画地の裏側の近隣から、某公社（ディベロッパー）にクレームが入りました。地元でも賛成していない事業を強引に進めて、近隣に迷惑をかけるのは許せないと匿名の電話が某公社に入ったのです。内部の反対だけでなく、近隣からも反対の声が上がり、しかも、地区内部の地権者が近隣と同通して、反対を煽っているということが明らかになってきました。
　某公社としては、このように、内部からも外部からも反対が出てはもう事業協力は続けられません。地元で緊急説明会が開かれ、その席で某公社がこの事業から撤退すると言明したのです。「このように、内部の反対者が外部と同通して反対を煽るとは、すでに信頼が失われた。しかも、今まで信頼関係があると思っていた役員の中からも、外部の反対者と同通する者が出るようでは、この事業はもう成り立たない。当社はこの事業から手を引く」
　純粋にこの事業に賛成し、今まで協力してきた地権者の人たちは、寝耳に水という感じで、動揺が広がりました。裏に流れる河川の拡幅工事とセットで考えていた事業ですから、このタイミングを逃すともはやまとまった再開発はここで終わりとなってしまいます。さる保険会社の底地に39名の借地人がいる、という地域の特殊事情を考えると、某公社が降りた時点ですべてが終わりとなってしまいます。地主の保険会社は再開発事業しか認めず、個別建て替えとなれば、厳しい建替え承諾金が要求されるだろうということは分かっていたからです。
　某公社は自分たちの主張だけすると、さっさと帰ってしまいました。後に残された地権者ははじめ茫然としていましたが、そのうちに、この再開発がいかほど自分たちの夢だったか考えると、失ったものの大きさに泣き出す人まで出てきました。混乱のきわみです。
	一人の情熱が危機を救う
　そのとき、一人の男性が立ちあがりました。今まではおとなしくて、会合でもほとんど発言などする人ではなかった人が立ちあがって「これまで自分は、傍観者で人任せだった。だけれども、今やっと目が覚めました。この事業はここでつぶしてはならないと思います。もし、今からでも間に合うなら、追っかけて行って某公社の人たちをもう一度、ここに迎えたい。そして、近隣の問題も私たちで解決すると伝えたい。そうしないと、必ず後悔する。私にどこまでできるか分かりませんが、私に賛成してくれるなら、今から一緒に某公社に出かけませんか。そして私たちの希望を伝えたい。私たちが生きる道は、そして子孫に残してやれるのは、この再開発しかない。どうですか皆さん。もう一度一緒にやりませんか」
　この人は、涙を流しながら訴えたのです。この涙ながらに訴えた人は、当時でも珍しい習字用の毛筆を手作りで作って販売している人でした。職人ですから口数も少なく、黙々と仕事をする人で、この地域の中でもあまり目立たない人でした。その人が立ち上がったのです。彼の涙につられて、みんなも涙を流し始めました。「そうだ。そうだ。もう一度やろう。みんなで頑張ろう」あちこちで声が上がりました。
　そのあと、この会合を緊急総会に切替えて、もう一度某公社を迎え入れようと決議され、全員が今までの条件で了承するという、再開発の同意総会に切り替わってしまいました。そのあとの、事業のスピードは目を見張るばかりでした。そして数年後に、この事業は完成したのです。今でも、涙の総会として知られている、東京のある地区での話です。
　
　要は、街づくりをすすめるには情熱が必要だということです。１人の情熱があれば、周りを動かしていけるということを、この再開発の事例は伝えてくれています。情熱さえあれば道は開けます。
	社会変革の情熱
　社会変革もまた情熱次第です。社会変革の情熱ということに関しては、明治時代に新島襄という方がいました。これは同志社大学を作った方です。今ではあまり知られていないのですけが、同志社大学の創立者新島襄です。この人も江戸の末期、当時海外に出ることは禁止されていたのですが、その禁を破って自分で脱藩して、単身でアメリカへ行ったのです。江戸末期の留学は藩から派遣されて行く、いわゆる公儀の留学が多かったのですが、新島襄は自らの意志で渡米し、自らの意志でアメリカの大学に入って、十年以上学んだ。その間日本では明治維新という革命が起こっていました。
　彼はアメリカの大学に入ったので、キリスト教も勉強していました。ある時、教会で話をしなさいと言われて彼は、教会で話をしました。英語で切々と訴えたのです。今日本では、革命が起こっている。しかし日本にはまったくお金がない。その日本には、新しい文明、近代文明の波が寄せているけれども、自分はそういう近代文明の大学ではなくて、もっと心の底からキリスト教文明に則った大学を作りたいと思っている、ということを教会で説法したのです。本当に情熱的に説法した。そうしたらその説法を聞いていた、ある裕福なお医者さんがまとまったお金を寄付してくれた。さらに、その場にいた全員がその話に感動してくれて、結果、当時のお金で５０００ドル集まったといいます。これは当時としては、大金です。
　最後に、彼が説法を終えて壇上から降りようとしたら、貧しい農夫が近づいてきて、ポケットから２ドル紙幣を出して、これを受け取ってくれ、このお金で自分は汽車に乗って家に帰るつもりだったけど、自分は歩いて帰るから、この２ドルを受け取ってくれ、と言って自分の最後の無け無しの金をはたいて、彼のために２ドルを出してくれた。
　というほどに、彼の話は感動を与えたようです。そのお金を元手にして新島襄という人は同志社大学をつくったわけですが、こういうことが「明治という国家」（司馬遼太郎著、NHNブックス）に載っています。その頃の、新島襄の精神状況を司馬遼太郎氏は次のように書いています。
	　彼は上州安中藩板倉家の江戸屋敷にうまれ、武士でありました。こっそり函館までゆき、そこからアメリカ船ベルリン号（ウィリアム・セーヴォリー船長）に乗りました。この密出国の動機について、新島は、後年振り返って「この挙は、藩主や両親をすてるということではない。自分一個の飲食栄華のためでもない。まったく国家のためである。自分の小さな力をすこしでもこの賑わざる国家と万民のためにつくそうと覚悟したのである」と、まことに明治人らしい。文久３年の新島襄という無名の青年の精神は、のちの明治国家の精神でもあったでしょう。
	　要は、そこまで強い情熱を持った新島襄の念いが、言葉にも表れ、行為にも表れて、それが人を動かしたということです。
	森を救った小鳥
　似たような話は、仏教の説話の中にもあります。「森の小鳥」のたとえ話があります。どういう話かと言いますと、ある時森に火事が起こった。それがだんだんと大きくなって火が広がっていく。動物たちがどんどん火に追われて逃げていく。ある池の側まで火が迫ってきて、いろいろな動物が池の周りに集まってきた。兎や鹿やリスや小鳥など。そういう小さい動物たちが皆、池の周りに集まってきて、追い込まれて、もうこれは駄目かなと思った時に、１羽の小鳥が飛び立っていって池に飛び込んだのです。そして、羽を濡らしてそのまま火の方に飛び立っていってパタパタと羽ばたきをして、その自分の羽にに付いた水をかけた。当然ジューと言って、一瞬にして蒸気になって消えていきます。しかしそれでもその小鳥はまた戻ってきて池に入って羽を濡らしてまた飛び立っていって、パタパタと水をかける。しかしジューと水蒸気になってまた消えてしまうわけです。それを３回、５回、１０回とやり続けた。それを見た別の小鳥が「そんな無駄なことはやめなよ」と言ったが、その小鳥は、「僕はやらずにいられないんだ」と言って、さらに２０回、５０回とやり続けました。へとへとになってきた。それでも池に戻って水を付けて羽ばたく、ということを繰り返した。
　ところが、へとへとになって、もう倒れるかなという時に、「じゃあ僕も手伝おう」と別の小鳥が、真似をして池に飛び込み、飛んでいって羽ばたいた。そして、5回、10回と同じようにやり続けました。それを見て小鳥という小鳥が全部真似をしはじめたのです。それを見た他の動物も、兎も鹿もリスも象もキリンも、全部の動物が水に飛び込んで身体を濡らして火の側まで行って水をかけた。
　ということをやっているうちに風向きが変わってきて、だんだんと火が向こうへ去っていった。そして動物たちが救われたという話です。森の小鳥のたとえ話として、仏教の説話に出てきます。
	情熱が道を開く
　まこと、情熱とはよい仕事をするものです。
「情熱は、才能に勝る」。これは、松下幸之助氏の言葉です。

 </summary>
		<content type="text/html" mode="escaped" xml:base="http://www.elc-japan.com/modules/hosokawa_blog2/index.php?p=23"><![CDATA[	&lt;p&gt;&lt;b&gt;再開発の危機&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　これまでの仕事の中で、一人の情熱が街づくりを進めていくのだと、実感することが何度もありました。特に印象に残っているのは、ある都内の再開発地区でのことです。私にとっては、ごくごく駆け出しのころの体験です。&lt;br /&gt;
　再開発事業を推進して行くには、できるだけ早いうちにディベロッパーを決めなければなりませんが、その地区では再開発後のポテンシャルがあまり無くて、民間のディベロッパーはほとんど興味を示さず、結果的にある公社がディベロッパーとして参加することになりました。自治体から請われて仕方なく参加したという状態のスタートです。&lt;br /&gt;
　何とか計画も進み、地権者の人たちへの具体的な数字の提示となった段階で、どうしても賛成できない人が出てきました。これでは、自分は賛成できないと、ゴネ始めたのです。しかし、基本の条件はみな同じです。その人だけ特別扱いするわけにはいきません。膠着状態が続いているころ、計画地の裏側の近隣から、某公社（ディベロッパー）にクレームが入りました。地元でも賛成していない事業を強引に進めて、近隣に迷惑をかけるのは許せないと匿名の電話が某公社に入ったのです。内部の反対だけでなく、近隣からも反対の声が上がり、しかも、地区内部の地権者が近隣と同通して、反対を煽っているということが明らかになってきました。&lt;br /&gt;
　某公社としては、このように、内部からも外部からも反対が出てはもう事業協力は続けられません。地元で緊急説明会が開かれ、その席で某公社がこの事業から撤退すると言明したのです。「このように、内部の反対者が外部と同通して反対を煽るとは、すでに信頼が失われた。しかも、今まで信頼関係があると思っていた役員の中からも、外部の反対者と同通する者が出るようでは、この事業はもう成り立たない。当社はこの事業から手を引く」&lt;br /&gt;
　純粋にこの事業に賛成し、今まで協力してきた地権者の人たちは、寝耳に水という感じで、動揺が広がりました。裏に流れる河川の拡幅工事とセットで考えていた事業ですから、このタイミングを逃すともはやまとまった再開発はここで終わりとなってしまいます。さる保険会社の底地に39名の借地人がいる、という地域の特殊事情を考えると、某公社が降りた時点ですべてが終わりとなってしまいます。地主の保険会社は再開発事業しか認めず、個別建て替えとなれば、厳しい建替え承諾金が要求されるだろうということは分かっていたからです。&lt;br /&gt;
　某公社は自分たちの主張だけすると、さっさと帰ってしまいました。後に残された地権者ははじめ茫然としていましたが、そのうちに、この再開発がいかほど自分たちの夢だったか考えると、失ったものの大きさに泣き出す人まで出てきました。混乱のきわみです。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;&lt;b&gt;一人の情熱が危機を救う&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　そのとき、一人の男性が立ちあがりました。今まではおとなしくて、会合でもほとんど発言などする人ではなかった人が立ちあがって「これまで自分は、傍観者で人任せだった。だけれども、今やっと目が覚めました。この事業はここでつぶしてはならないと思います。もし、今からでも間に合うなら、追っかけて行って某公社の人たちをもう一度、ここに迎えたい。そして、近隣の問題も私たちで解決すると伝えたい。そうしないと、必ず後悔する。私にどこまでできるか分かりませんが、私に賛成してくれるなら、今から一緒に某公社に出かけませんか。そして私たちの希望を伝えたい。私たちが生きる道は、そして子孫に残してやれるのは、この再開発しかない。どうですか皆さん。もう一度一緒にやりませんか」&lt;br /&gt;
　この人は、涙を流しながら訴えたのです。この涙ながらに訴えた人は、当時でも珍しい習字用の毛筆を手作りで作って販売している人でした。職人ですから口数も少なく、黙々と仕事をする人で、この地域の中でもあまり目立たない人でした。その人が立ち上がったのです。彼の涙につられて、みんなも涙を流し始めました。「そうだ。そうだ。もう一度やろう。みんなで頑張ろう」あちこちで声が上がりました。&lt;br /&gt;
　そのあと、この会合を緊急総会に切替えて、もう一度某公社を迎え入れようと決議され、全員が今までの条件で了承するという、再開発の同意総会に切り替わってしまいました。そのあとの、事業のスピードは目を見張るばかりでした。そして数年後に、この事業は完成したのです。今でも、涙の総会として知られている、東京のある地区での話です。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　要は、街づくりをすすめるには情熱が必要だということです。１人の情熱があれば、周りを動かしていけるということを、この再開発の事例は伝えてくれています。情熱さえあれば道は開けます。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;&lt;b&gt;社会変革の情熱&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　社会変革もまた情熱次第です。社会変革の情熱ということに関しては、明治時代に新島襄という方がいました。これは同志社大学を作った方です。今ではあまり知られていないのですけが、同志社大学の創立者新島襄です。この人も江戸の末期、当時海外に出ることは禁止されていたのですが、その禁を破って自分で脱藩して、単身でアメリカへ行ったのです。江戸末期の留学は藩から派遣されて行く、いわゆる公儀の留学が多かったのですが、新島襄は自らの意志で渡米し、自らの意志でアメリカの大学に入って、十年以上学んだ。その間日本では明治維新という革命が起こっていました。&lt;br /&gt;
　彼はアメリカの大学に入ったので、キリスト教も勉強していました。ある時、教会で話をしなさいと言われて彼は、教会で話をしました。英語で切々と訴えたのです。今日本では、革命が起こっている。しかし日本にはまったくお金がない。その日本には、新しい文明、近代文明の波が寄せているけれども、自分はそういう近代文明の大学ではなくて、もっと心の底からキリスト教文明に則った大学を作りたいと思っている、ということを教会で説法したのです。本当に情熱的に説法した。そうしたらその説法を聞いていた、ある裕福なお医者さんがまとまったお金を寄付してくれた。さらに、その場にいた全員がその話に感動してくれて、結果、当時のお金で５０００ドル集まったといいます。これは当時としては、大金です。&lt;br /&gt;
　最後に、彼が説法を終えて壇上から降りようとしたら、貧しい農夫が近づいてきて、ポケットから２ドル紙幣を出して、これを受け取ってくれ、このお金で自分は汽車に乗って家に帰るつもりだったけど、自分は歩いて帰るから、この２ドルを受け取ってくれ、と言って自分の最後の無け無しの金をはたいて、彼のために２ドルを出してくれた。&lt;br /&gt;
　というほどに、彼の話は感動を与えたようです。そのお金を元手にして新島襄という人は同志社大学をつくったわけですが、こういうことが「明治という国家」（司馬遼太郎著、NHNブックス）に載っています。その頃の、新島襄の精神状況を司馬遼太郎氏は次のように書いています。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　&lt;b&gt;彼は上州安中藩板倉家の江戸屋敷にうまれ、武士でありました。こっそり函館までゆき、そこからアメリカ船ベルリン号（ウィリアム・セーヴォリー船長）に乗りました。この密出国の動機について、新島は、後年振り返って「この挙は、藩主や両親をすてるということではない。自分一個の飲食栄華のためでもない。まったく国家のためである。自分の小さな力をすこしでもこの賑わざる国家と万民のためにつくそうと覚悟したのである」と、まことに明治人らしい。文久３年の新島襄という無名の青年の精神は、のちの明治国家の精神でもあったでしょう。&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　要は、そこまで強い情熱を持った新島襄の念いが、言葉にも表れ、行為にも表れて、それが人を動かしたということです。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;&lt;b&gt;森を救った小鳥&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　似たような話は、仏教の説話の中にもあります。「森の小鳥」のたとえ話があります。どういう話かと言いますと、ある時森に火事が起こった。それがだんだんと大きくなって火が広がっていく。動物たちがどんどん火に追われて逃げていく。ある池の側まで火が迫ってきて、いろいろな動物が池の周りに集まってきた。兎や鹿やリスや小鳥など。そういう小さい動物たちが皆、池の周りに集まってきて、追い込まれて、もうこれは駄目かなと思った時に、１羽の小鳥が飛び立っていって池に飛び込んだのです。そして、羽を濡らしてそのまま火の方に飛び立っていってパタパタと羽ばたきをして、その自分の羽にに付いた水をかけた。当然ジューと言って、一瞬にして蒸気になって消えていきます。しかしそれでもその小鳥はまた戻ってきて池に入って羽を濡らしてまた飛び立っていって、パタパタと水をかける。しかしジューと水蒸気になってまた消えてしまうわけです。それを３回、５回、１０回とやり続けた。それを見た別の小鳥が「そんな無駄なことはやめなよ」と言ったが、その小鳥は、「僕はやらずにいられないんだ」と言って、さらに２０回、５０回とやり続けました。へとへとになってきた。それでも池に戻って水を付けて羽ばたく、ということを繰り返した。&lt;br /&gt;
　ところが、へとへとになって、もう倒れるかなという時に、「じゃあ僕も手伝おう」と別の小鳥が、真似をして池に飛び込み、飛んでいって羽ばたいた。そして、5回、10回と同じようにやり続けました。それを見て小鳥という小鳥が全部真似をしはじめたのです。それを見た他の動物も、兎も鹿もリスも象もキリンも、全部の動物が水に飛び込んで身体を濡らして火の側まで行って水をかけた。&lt;br /&gt;
　ということをやっているうちに風向きが変わってきて、だんだんと火が向こうへ去っていった。そして動物たちが救われたという話です。森の小鳥のたとえ話として、仏教の説話に出てきます。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;&lt;b&gt;情熱が道を開く&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　まこと、情熱とはよい仕事をするものです。&lt;br /&gt;
「情熱は、才能に勝る」。これは、松下幸之助氏の言葉です。
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	  	<author>
			<name>ogawa</name>
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		<title>ELCまちづくりミッション18　雪だるま型人生観</title>
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		<modified>2008-08-18T19:40:49+09:00</modified>
		<issued>2008-08-18T19:40:49+09:00</issued>
		
	<dc:subject>General</dc:subject>		<summary type="text/html">	反省でなく行動を
　以前紹介した転職を繰返す若い青年の話（ミッション２）や、前回のペンション経営者の話（ミッション１７）、あるいは松下幸之助さんの熱海会談の話（ミッション１５）は、反省して自分の心を変えたら周りが変わったというものです。ところが、心を変えるというのは結構大変なのです。心というのはあるのかないのかよくわからない。これまでの話を聞くとなんとなくありそうかなと思ったかもしれませんが、でも本当にあるのかというとわからない。掴み所がありませんから、心を変えろ、心の構造改革をしろと言われてもなかなか難しいところがある。そこで次に、もうひとつ別の観点から考えてみます。それは「行動によって心を変える、行動によって心を鍛える」というものです。
　別の言葉でいうと、悩んでいるよりは行動しなさいということでもあります。落ち込んでいるよりは行動しなさい。落ち込んでいて、原因はどこにあるか考え始めるともっと落ち込んでしまう人がいますから、そういう場合には、反省するよりもいったん過去を断ち切って行動しなさいという考え方もあります。
	警察学校をトップで卒業
　これも以前、私が四国のまちづくりで知り合った、ロータリークラブの方の体験です。地域で経営者として成功し、すでにその地域で影響力を持った方でした。私よりも少し若い方で、この方も父親に対して反発して、高校を卒業してすぐに四国を出て東京へ行った。お父さんという方は新聞記者だったのですが、その父親に反発して、東京の大学へ行くことにした。ともかく自分ひとりで生きていくぞと決意して、行動に移した。ところが、お金がありませんから、最初はお金を稼がなければならない。そこで、働きながらお金がもらえてしかも勉強の出来る所というので、彼は試験を受けて警察学校へ入ったそうです。入校生は一応地方公務員ですから給料が出て、しかも法律的な知識も身につけられるというのでそこへ約１年間通った。その警察学校を、彼はトップで卒業しました。そして警察学校を卒業すると、みんなそれぞれの都内の警察署や交番に配属されます。そこで彼はある交番に配属されました。現場のおまわりさんというのはやはり成績が評価されます。検挙率というもので評価されるらしい。万引きとか、あるいは家宅侵入とか、交通違反とか。そういう犯罪者を何人つかまえたかで点数が決まるようです。
彼はある交番に１年間勤めて、成績が都内のお巡りさんのトップになった。これは、じつは彼が初めてらしいのです。警察学校も学業優秀でトップ、検挙率もトップ。両方ともトップというのは彼が初めてだったのです。そういう実績を積んで、彼はすごく自信を持った。しかし、もともと警察官になるつもりでいたわけではないですから、最終的には大学に行きたいということで、受験に望んだ。ところが、東大に行きたかったのですが、残念ながら東大は落ちてしまったので、さる公立の大学へ入ったのです。
	学習塾の成功
でも、やはり学費は全部自分で稼がなければならないので、アルバイトで子供の家庭教師を始めた。自分の６畳一間のアパートに子供を集めて勉強を教え始めた。検挙率も得意ということは、人間を見る目がとても鋭いのでしょう。子供に人気があって、口コミで広がって、学習塾の生徒がどんどん増えていった。それで大学の勉強よりも面白くなって、学習塾を何カ所も展開するようになってきた。大学は１年留年せざるを得ないくらいに忙しくなってきたので、仲間の学生アルバイトを使いながら、東京の町田あるいは川崎あたりで、最終的には２５０人くらいの先生を使うくらいの学習塾を展開するようになった。大学生でありながら、経営者として学習塾を経営したというのです。それが面白いくらいに儲かって、儲かって仕方がない。
	区議会議員に当選
お金ができたものですから、当然のことながら、普通のサラリーマンなんかする気が全くなくなってしまいました。そうしたころ、地域に密着した学習塾ですから、たまたま父兄の方から、区議会議員の選挙に出ないかと誘われたのです。それじゃあ出てみようかと、何の地盤もないのですが、ただ学習塾で実績があっただけで、区議会議員の選挙に出ました。結果、４０人中第２位で当選したというのです。２８歳という最年少で区議会の議員に当選しました。もう今から３０年以上も前の話です。
区議会議員になると、自分のお父さんくらいの年齢の、役所の部長や課長が、ペコペコ頭を下げていろいろなことを報告に来る。とても気持ちがよくてやめられない。今まではこちらの方が頭を下げていたような年輩の人が、逆に自分に対してペコペコするのですから。そういう状態で、２８歳で区議になって３年くらい勤めていた。ところがちょうど任期が終わる直前に、今度は都議会議員の選挙があった。そしたらまた父兄から、「先生、今度は都議会議員に出ませんか」と言われて、区議会議員辞めて都議会議員の選挙に出たのです。今までの蓄えや、人脈など全部投入し、かなりの借金もして、都議会議員の選挙に出ました。
当時でも、都議会議員に出ると、だいたい１億円使わないと当選しないと言われていました。１億円です、つまりそれくらいの金は使ったということです。ところが、世の中それほど甘くはない。今度は物の見事に落ちてしまった。そして全財産すってしまった。全部スッカラカンになったという。最後は自分の部屋に、段ボールいくつかとみかん箱が残ったくらいで、金目のものは全部持って行かれた。奥さんもさすがに愛想尽かして、こんな人とは一緒にやっていられないといって、離婚されたという。
	人生のどん底
　最後に、そのとき支えになってくれた女性が一人残った。その後その女性と再婚するのですが、でももう、これでは東京にいられないということで、都落ちして大阪へ出た。しばらく何をする気にもなれず、ボーと過ごしていたら、たまたまそのとき、かつての知り合いの男性が訪ねてきて、その男性が、「これから１週間ほどアメリカへ行って来るから、ちょっと預かって欲しい」と４００万円を置いていったそうです。現金で預かったというのです。彼は、あぁそうという軽い気持ちで預かった。
ところが、魔が差すというのはこういうことを言うのですね。自分は職がないわけですから４００万円見てると、これを使ってうまく儲けられないかと、ふと思った。魔が差した。ピーンと来た。「競馬だ」。気がついたら、競馬場にいたというのです。
その日、一日で７レースあった。第１レースから順番にかけていった。１レース目、２レース目とも当たった、３レース目も当たった。６レースまで全部当たった。これはすごい！って、そして最後の第７レースに全部かけた。ところが最後の第７レースで完全にはずれて、４００万円全部すってしまった。そしたらもう、怖くて怖くて、家に帰って布団かぶってブルブル震えて寝ていたというのです。死ぬことしか考えなかった。そこへ奥さんが帰ってきた。「どうしたの」「あの４００万円すっちゃった。死ぬしかない」と。そうしたら奥さんがアハハハって笑ったそうです。「あんたの命４００万？そんなに安いの」と言われたらハッと目が覚めた。結局一攫千金を夢見た自分が悪かったのだと気づいた。そしたら奥さんが「もう一回ゼロからやり直せばじゃないの。もう一回頑張ろうよ」と言って励ましてくれたので、一週間後、友達が帰ってきたときに２人で謝りに行った。半年以内に必ず返す、申し訳ないと謝って。
	ちり紙交換の成功
そして次に彼は岡山に行ったのです。少しでも故郷の四国に近づきたかったのでしょう。ちょうど、そのころ岡山駅の近くにちり紙交換の拠点があったらしいのですが、なんとか稼がなきゃいけないということで、そのちり紙交換を始めた。今ではもうちり紙交換というのはなくなってしまいましたが、そのころはまだ商売として存在していた。
２トントラックを借りて、そしてちり紙交換ですといってマイクで流しながらいろいろな所を回って歩くあの商売を、やりはじめた。もうお金がないから、背に腹は換えられない。奥さんはその頃ちょうど妊娠していたけど、母子手帳ももらえないくらいお金がなかったのです。それで、ちり紙交換やりはじめたのですが、彼は何回か周っている内に、ちり紙交換にもコツがあることに気がついた。普通のちり紙交換は１日１回転しかしない。朝トラック借りて出て行って夕方帰ってくる。ところが、彼はちり紙交換にコツがあるのがわかった。どういうことかというと、人口密度の高いところ、たとえば団地とか、あるいは道路の四つ角あたり、そういう人口密度の高い所がツボだとわかった。そこでそういう所に車を止めて、子供の童謡の、「メエメエ森の子ヤギ」という、あの童謡をずっと静かに流すのだそうです。ヤギは紙を食べるので、その童謡を流しておいて一軒一軒訪ねていくのです。「今、あの童謡を流しているちり紙交換ですけど、お宅新聞ありませんか？」と言って。「うちはまだ溜まってないわ」「溜まってなくてもいいですから、少しでもどうですか」と言ったら、みんな出してくれる。ちり紙いらないからといって、みんなただで出してくれる。今でこそ、資源回収で新聞紙は別に出しますけど、当時はまだ新聞紙とちり紙を交換することはビジネスになった。そうやって自分から一軒一軒訪ねていって新聞紙を集めていったら、１日４回転した。普通は１回転。自分から集めていくのですから、どんどんみんな出してくれる。あっという間にトラックが新聞紙でいっぱいになってしまう。１日４回転です。そうしたらあっという間にお金ができて、４００万円の借金も返せた。
	本のセールスの成功
　それで半年ほどでそこを辞めて、次にまたもっと儲かる営業ということで、ある出版社の高価な本のセールス販売をやり始めました。ところが今度はやってもやっても全然契約がとれない。なぜだろうと思った。一方で全国トップのセールスマンがいる。何が違うのだろう？　そこで一週間鞄持ちさせて下さいと頼み込んで、そのトップセールスマンの鞄持ちをした。よく見たらトークから何から全部自分と同じことを言っている。ところが彼は全部契約にしてしまう。自分はできない。なぜだろう。
ところがよくよく観察したら、心理状態が微妙に違う事に気がついた。彼はおそるおそる入っていた。そのトップセールスマンは自信をもって、明るく、爽やかに、「こんにちわ！」と言って入っていく。最初の精神状態が微妙に違うということに気がついて、それで自分も明るく元気にやり始めた。そしたら、次の月からトップになった。全国のトップセールスマンを6ヶ月続けた。それで、蓄えが出来たのでまた四国に戻ってきました。四国に戻って、その蓄えを基に彼はまた学習塾をやり始めました。今度はかなり目的を明確にした幼児教育の塾です。学習塾については彼自身過去の実績がありますから、そこでも能力を発揮しました。
	幼児向けエリート塾の成功
　彼は、ある国立大学の付属小学校に入ることを目的にした、幼児向けエリート塾をつくったのです。そしたら２年もしないうちに、地元で評判の成功者になりました。あそこへ入ったら必ず付属小学校へ入れるというくらいの高い評判を得たのです。なぜすぐにそういう実績が出せたかというと、要は子供のやる気を引き出すことだという。やる気を引き出すには良い所を褒めてやることです。コツはこれひとつだと言っていました。子供の良い所を褒めると子供はいくらでもやる気が出る。勉強以外でも良い所を褒めてやる。それともうひとつは、そういう子供でも家に帰るとまた元に戻ってしまうので、母親も一緒に教育するのだと。母親にも子どもと一緒のクラスに入ってもらい、一緒に聞いて貰うようにしたら、子どものやる気がどんどん出て、口コミで広がっていって、評価が定着したという話をしてくれました。
	行動主義、行動療法
要するに、彼は行動主義者なのです。失敗しても落ちこまない。失敗して一時は悩んだとしても、長い間は落ち込まないで、次の行動に移っているのです。行動することによって、彼は自分の心を前向きに積極的に変えている。そういう人生です。つまり、失敗して落ち込んで、あぁダメだ、ダメだと、ダメになっていくのではなく、それを教訓に成長していく人生です。行動して自分の心の弱点を乗り越えていく。だから行動は心を変えるのです。行動は心を強くすることができるのです。
	ところで、「大人のための勉強法－パワーアップ編」（和田秀樹著、ＰＨＰ新書）という本の中に行動の重要性が述べられています。最近鬱病になる人や精神的にダメージを受ける人がたくさんいますが、この著者は精神科の医者の立場から、どうやったらそういう人を立ち直らせることができるかという視点でいろいろ書いているのです。この本の中でも書いていますが、最近のアメリカの精神医学界では、行動療法というのが主流になってきているらしい。以前の精神分析ではフロイトの夢分析が知られています。その人が見た夢から分析して、あなたの心のトラウマはこういうところにあって、ここを治すともっと積極的になれるとか、幸福になれるとか、そういう精神分析から心の改造ということをフロイトがやってきましたが、今、アメリカの精神医学の世界は、そういったフロイト主義ではなくて、もっと行動から入って心を治療していく行動療法が主流だと言うのです。具体的には次のように書かれてあります。
	「1970年代頃からこの行動主義の考え方に基づいたアメとムチを用意して、行動の方を変えていく行動療法と呼ばれる治療法が、人間の心を変えるより短期間で治療が進む上に、治る確率も高いと人気が高まってきた。特に９０年代以降はこの治療法の人気が高まっている。例えば、トラウマ（心的外傷）の後遺症の治療でもそれまでは、過去のトラウマの記憶をきちんと思い出して、それに向き合えるようにするのが治療の基本だったが、調べてみるとそのような回想を求める治療法はかえって悪くなるケースのほうが多い。それよりは、不安症状が出た際に、過去に原因を求めずに、今その不安に対してリラックスできるようにする行動療法的なテクニックを身につけたほうが、社会適応もよくなるし、具合も良いとされてきたのだ。」
	ということが書かれています。心を変えよう変えようとするとそれにとらわれて、かえって過去を引きずってしまうという傾向がアメリカでも出てきた。それよりは、目の前にある問題を解決したいなら、まず行動を起こしなさいという考え方がアメリカの精神医学では主流になってきているということです。
　
雪だるま型人生観
このような、行動を重ねることによって自分の心を変え自分の器を大きくしていく生き方、これを「雪だるま型人生観」と定義している人もいます。雪だるまというのは、最初は小さな雪のかたまりを転がしていって、だんだんと大きくしていくものです。その過程で石ころがついたり、土がついたりしますが、それにお構いなく転がしていくうちに大きくなっていきます。このように少々の石ころや土がついても、どんどん転がしているうちに雪だるまが大きくなっていくように、人生も失敗や不運があってもひたすらそこから教訓を得て次々と行動していくと、大きな器になっていくというものです。
石ころや土がついたからといって、それを取ろうとして止まってしまうと雪だるまはできない。場合によっては溶けてしまいかねない。それよりは、そういう石や土をものともせずに、ひたすら転がして大きくしていく。
	今のちり紙交換の男性がまさにそうです。過去、成功や失敗もいろいろありましたが、その失敗や不運にめげることなく次々と行動していって、すべての経験を肥やしにして、器を大きくしていったのです。
	　結局、まちづくりも、ものづくりも、サービスも、どんな事業もこの精神でいけば、不可能はないでしょう。成功しかないでしょう。

 </summary>
		<content type="text/html" mode="escaped" xml:base="http://www.elc-japan.com/modules/hosokawa_blog2/index.php?p=22"><![CDATA[	&lt;p&gt;&lt;b&gt;反省でなく行動を&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　以前紹介した転職を繰返す若い青年の話（ミッション２）や、前回のペンション経営者の話（ミッション１７）、あるいは松下幸之助さんの熱海会談の話（ミッション１５）は、反省して自分の心を変えたら周りが変わったというものです。ところが、心を変えるというのは結構大変なのです。心というのはあるのかないのかよくわからない。これまでの話を聞くとなんとなくありそうかなと思ったかもしれませんが、でも本当にあるのかというとわからない。掴み所がありませんから、心を変えろ、心の構造改革をしろと言われてもなかなか難しいところがある。そこで次に、もうひとつ別の観点から考えてみます。それは「行動によって心を変える、行動によって心を鍛える」というものです。&lt;br /&gt;
　別の言葉でいうと、悩んでいるよりは行動しなさいということでもあります。落ち込んでいるよりは行動しなさい。落ち込んでいて、原因はどこにあるか考え始めるともっと落ち込んでしまう人がいますから、そういう場合には、反省するよりもいったん過去を断ち切って行動しなさいという考え方もあります。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;&lt;b&gt;警察学校をトップで卒業&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　これも以前、私が四国のまちづくりで知り合った、ロータリークラブの方の体験です。地域で経営者として成功し、すでにその地域で影響力を持った方でした。私よりも少し若い方で、この方も父親に対して反発して、高校を卒業してすぐに四国を出て東京へ行った。お父さんという方は新聞記者だったのですが、その父親に反発して、東京の大学へ行くことにした。ともかく自分ひとりで生きていくぞと決意して、行動に移した。ところが、お金がありませんから、最初はお金を稼がなければならない。そこで、働きながらお金がもらえてしかも勉強の出来る所というので、彼は試験を受けて警察学校へ入ったそうです。入校生は一応地方公務員ですから給料が出て、しかも法律的な知識も身につけられるというのでそこへ約１年間通った。その警察学校を、彼はトップで卒業しました。そして警察学校を卒業すると、みんなそれぞれの都内の警察署や交番に配属されます。そこで彼はある交番に配属されました。現場のおまわりさんというのはやはり成績が評価されます。検挙率というもので評価されるらしい。万引きとか、あるいは家宅侵入とか、交通違反とか。そういう犯罪者を何人つかまえたかで点数が決まるようです。&lt;br /&gt;
彼はある交番に１年間勤めて、成績が都内のお巡りさんのトップになった。これは、じつは彼が初めてらしいのです。警察学校も学業優秀でトップ、検挙率もトップ。両方ともトップというのは彼が初めてだったのです。そういう実績を積んで、彼はすごく自信を持った。しかし、もともと警察官になるつもりでいたわけではないですから、最終的には大学に行きたいということで、受験に望んだ。ところが、東大に行きたかったのですが、残念ながら東大は落ちてしまったので、さる公立の大学へ入ったのです。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;&lt;b&gt;学習塾の成功&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
でも、やはり学費は全部自分で稼がなければならないので、アルバイトで子供の家庭教師を始めた。自分の６畳一間のアパートに子供を集めて勉強を教え始めた。検挙率も得意ということは、人間を見る目がとても鋭いのでしょう。子供に人気があって、口コミで広がって、学習塾の生徒がどんどん増えていった。それで大学の勉強よりも面白くなって、学習塾を何カ所も展開するようになってきた。大学は１年留年せざるを得ないくらいに忙しくなってきたので、仲間の学生アルバイトを使いながら、東京の町田あるいは川崎あたりで、最終的には２５０人くらいの先生を使うくらいの学習塾を展開するようになった。大学生でありながら、経営者として学習塾を経営したというのです。それが面白いくらいに儲かって、儲かって仕方がない。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;&lt;b&gt;区議会議員に当選&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
お金ができたものですから、当然のことながら、普通のサラリーマンなんかする気が全くなくなってしまいました。そうしたころ、地域に密着した学習塾ですから、たまたま父兄の方から、区議会議員の選挙に出ないかと誘われたのです。それじゃあ出てみようかと、何の地盤もないのですが、ただ学習塾で実績があっただけで、区議会議員の選挙に出ました。結果、４０人中第２位で当選したというのです。２８歳という最年少で区議会の議員に当選しました。もう今から３０年以上も前の話です。&lt;br /&gt;
区議会議員になると、自分のお父さんくらいの年齢の、役所の部長や課長が、ペコペコ頭を下げていろいろなことを報告に来る。とても気持ちがよくてやめられない。今まではこちらの方が頭を下げていたような年輩の人が、逆に自分に対してペコペコするのですから。そういう状態で、２８歳で区議になって３年くらい勤めていた。ところがちょうど任期が終わる直前に、今度は都議会議員の選挙があった。そしたらまた父兄から、「先生、今度は都議会議員に出ませんか」と言われて、区議会議員辞めて都議会議員の選挙に出たのです。今までの蓄えや、人脈など全部投入し、かなりの借金もして、都議会議員の選挙に出ました。&lt;br /&gt;
当時でも、都議会議員に出ると、だいたい１億円使わないと当選しないと言われていました。１億円です、つまりそれくらいの金は使ったということです。ところが、世の中それほど甘くはない。今度は物の見事に落ちてしまった。そして全財産すってしまった。全部スッカラカンになったという。最後は自分の部屋に、段ボールいくつかとみかん箱が残ったくらいで、金目のものは全部持って行かれた。奥さんもさすがに愛想尽かして、こんな人とは一緒にやっていられないといって、離婚されたという。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;&lt;b&gt;人生のどん底&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　最後に、そのとき支えになってくれた女性が一人残った。その後その女性と再婚するのですが、でももう、これでは東京にいられないということで、都落ちして大阪へ出た。しばらく何をする気にもなれず、ボーと過ごしていたら、たまたまそのとき、かつての知り合いの男性が訪ねてきて、その男性が、「これから１週間ほどアメリカへ行って来るから、ちょっと預かって欲しい」と４００万円を置いていったそうです。現金で預かったというのです。彼は、あぁそうという軽い気持ちで預かった。&lt;br /&gt;
ところが、魔が差すというのはこういうことを言うのですね。自分は職がないわけですから４００万円見てると、これを使ってうまく儲けられないかと、ふと思った。魔が差した。ピーンと来た。「競馬だ」。気がついたら、競馬場にいたというのです。&lt;br /&gt;
その日、一日で７レースあった。第１レースから順番にかけていった。１レース目、２レース目とも当たった、３レース目も当たった。６レースまで全部当たった。これはすごい！って、そして最後の第７レースに全部かけた。ところが最後の第７レースで完全にはずれて、４００万円全部すってしまった。そしたらもう、怖くて怖くて、家に帰って布団かぶってブルブル震えて寝ていたというのです。死ぬことしか考えなかった。そこへ奥さんが帰ってきた。「どうしたの」「あの４００万円すっちゃった。死ぬしかない」と。そうしたら奥さんがアハハハって笑ったそうです。「あんたの命４００万？そんなに安いの」と言われたらハッと目が覚めた。結局一攫千金を夢見た自分が悪かったのだと気づいた。そしたら奥さんが「もう一回ゼロからやり直せばじゃないの。もう一回頑張ろうよ」と言って励ましてくれたので、一週間後、友達が帰ってきたときに２人で謝りに行った。半年以内に必ず返す、申し訳ないと謝って。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;&lt;b&gt;ちり紙交換の成功&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
そして次に彼は岡山に行ったのです。少しでも故郷の四国に近づきたかったのでしょう。ちょうど、そのころ岡山駅の近くにちり紙交換の拠点があったらしいのですが、なんとか稼がなきゃいけないということで、そのちり紙交換を始めた。今ではもうちり紙交換というのはなくなってしまいましたが、そのころはまだ商売として存在していた。&lt;br /&gt;
２トントラックを借りて、そしてちり紙交換ですといってマイクで流しながらいろいろな所を回って歩くあの商売を、やりはじめた。もうお金がないから、背に腹は換えられない。奥さんはその頃ちょうど妊娠していたけど、母子手帳ももらえないくらいお金がなかったのです。それで、ちり紙交換やりはじめたのですが、彼は何回か周っている内に、ちり紙交換にもコツがあることに気がついた。普通のちり紙交換は１日１回転しかしない。朝トラック借りて出て行って夕方帰ってくる。ところが、彼はちり紙交換にコツがあるのがわかった。どういうことかというと、人口密度の高いところ、たとえば団地とか、あるいは道路の四つ角あたり、そういう人口密度の高い所がツボだとわかった。そこでそういう所に車を止めて、子供の童謡の、「メエメエ森の子ヤギ」という、あの童謡をずっと静かに流すのだそうです。ヤギは紙を食べるので、その童謡を流しておいて一軒一軒訪ねていくのです。「今、あの童謡を流しているちり紙交換ですけど、お宅新聞ありませんか？」と言って。「うちはまだ溜まってないわ」「溜まってなくてもいいですから、少しでもどうですか」と言ったら、みんな出してくれる。ちり紙いらないからといって、みんなただで出してくれる。今でこそ、資源回収で新聞紙は別に出しますけど、当時はまだ新聞紙とちり紙を交換することはビジネスになった。そうやって自分から一軒一軒訪ねていって新聞紙を集めていったら、１日４回転した。普通は１回転。自分から集めていくのですから、どんどんみんな出してくれる。あっという間にトラックが新聞紙でいっぱいになってしまう。１日４回転です。そうしたらあっという間にお金ができて、４００万円の借金も返せた。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;&lt;b&gt;本のセールスの成功&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　それで半年ほどでそこを辞めて、次にまたもっと儲かる営業ということで、ある出版社の高価な本のセールス販売をやり始めました。ところが今度はやってもやっても全然契約がとれない。なぜだろうと思った。一方で全国トップのセールスマンがいる。何が違うのだろう？　そこで一週間鞄持ちさせて下さいと頼み込んで、そのトップセールスマンの鞄持ちをした。よく見たらトークから何から全部自分と同じことを言っている。ところが彼は全部契約にしてしまう。自分はできない。なぜだろう。&lt;br /&gt;
ところがよくよく観察したら、心理状態が微妙に違う事に気がついた。彼はおそるおそる入っていた。そのトップセールスマンは自信をもって、明るく、爽やかに、「こんにちわ！」と言って入っていく。最初の精神状態が微妙に違うということに気がついて、それで自分も明るく元気にやり始めた。そしたら、次の月からトップになった。全国のトップセールスマンを6ヶ月続けた。それで、蓄えが出来たのでまた四国に戻ってきました。四国に戻って、その蓄えを基に彼はまた学習塾をやり始めました。今度はかなり目的を明確にした幼児教育の塾です。学習塾については彼自身過去の実績がありますから、そこでも能力を発揮しました。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;&lt;b&gt;幼児向けエリート塾の成功&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　彼は、ある国立大学の付属小学校に入ることを目的にした、幼児向けエリート塾をつくったのです。そしたら２年もしないうちに、地元で評判の成功者になりました。あそこへ入ったら必ず付属小学校へ入れるというくらいの高い評判を得たのです。なぜすぐにそういう実績が出せたかというと、要は子供のやる気を引き出すことだという。やる気を引き出すには良い所を褒めてやることです。コツはこれひとつだと言っていました。子供の良い所を褒めると子供はいくらでもやる気が出る。勉強以外でも良い所を褒めてやる。それともうひとつは、そういう子供でも家に帰るとまた元に戻ってしまうので、母親も一緒に教育するのだと。母親にも子どもと一緒のクラスに入ってもらい、一緒に聞いて貰うようにしたら、子どものやる気がどんどん出て、口コミで広がっていって、評価が定着したという話をしてくれました。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;&lt;b&gt;行動主義、行動療法&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
要するに、彼は行動主義者なのです。失敗しても落ちこまない。失敗して一時は悩んだとしても、長い間は落ち込まないで、次の行動に移っているのです。行動することによって、彼は自分の心を前向きに積極的に変えている。そういう人生です。つまり、失敗して落ち込んで、あぁダメだ、ダメだと、ダメになっていくのではなく、それを教訓に成長していく人生です。行動して自分の心の弱点を乗り越えていく。だから行動は心を変えるのです。行動は心を強くすることができるのです。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;ところで、「大人のための勉強法－パワーアップ編」（和田秀樹著、ＰＨＰ新書）という本の中に行動の重要性が述べられています。最近鬱病になる人や精神的にダメージを受ける人がたくさんいますが、この著者は精神科の医者の立場から、どうやったらそういう人を立ち直らせることができるかという視点でいろいろ書いているのです。この本の中でも書いていますが、最近のアメリカの精神医学界では、行動療法というのが主流になってきているらしい。以前の精神分析ではフロイトの夢分析が知られています。その人が見た夢から分析して、あなたの心のトラウマはこういうところにあって、ここを治すともっと積極的になれるとか、幸福になれるとか、そういう精神分析から心の改造ということをフロイトがやってきましたが、今、アメリカの精神医学の世界は、そういったフロイト主義ではなくて、もっと行動から入って心を治療していく行動療法が主流だと言うのです。具体的には次のように書かれてあります。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;&lt;b&gt;「1970年代頃からこの行動主義の考え方に基づいたアメとムチを用意して、行動の方を変えていく行動療法と呼ばれる治療法が、人間の心を変えるより短期間で治療が進む上に、治る確率も高いと人気が高まってきた。特に９０年代以降はこの治療法の人気が高まっている。例えば、トラウマ（心的外傷）の後遺症の治療でもそれまでは、過去のトラウマの記憶をきちんと思い出して、それに向き合えるようにするのが治療の基本だったが、調べてみるとそのような回想を求める治療法はかえって悪くなるケースのほうが多い。それよりは、不安症状が出た際に、過去に原因を求めずに、今その不安に対してリラックスできるようにする行動療法的なテクニックを身につけたほうが、社会適応もよくなるし、具合も良いとされてきたのだ。」&lt;/b&gt;&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;ということが書かれています。心を変えよう変えようとするとそれにとらわれて、かえって過去を引きずってしまうという傾向がアメリカでも出てきた。それよりは、目の前にある問題を解決したいなら、まず行動を起こしなさいという考え方がアメリカの精神医学では主流になってきているということです。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
&lt;b&gt;雪だるま型人生観&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
このような、行動を重ねることによって自分の心を変え自分の器を大きくしていく生き方、これを「雪だるま型人生観」と定義している人もいます。雪だるまというのは、最初は小さな雪のかたまりを転がしていって、だんだんと大きくしていくものです。その過程で石ころがついたり、土がついたりしますが、それにお構いなく転がしていくうちに大きくなっていきます。このように少々の石ころや土がついても、どんどん転がしているうちに雪だるまが大きくなっていくように、人生も失敗や不運があってもひたすらそこから教訓を得て次々と行動していくと、大きな器になっていくというものです。&lt;br /&gt;
石ころや土がついたからといって、それを取ろうとして止まってしまうと雪だるまはできない。場合によっては溶けてしまいかねない。それよりは、そういう石や土をものともせずに、ひたすら転がして大きくしていく。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;今のちり紙交換の男性がまさにそうです。過去、成功や失敗もいろいろありましたが、その失敗や不運にめげることなく次々と行動していって、すべての経験を肥やしにして、器を大きくしていったのです。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　結局、まちづくりも、ものづくりも、サービスも、どんな事業もこの精神でいけば、不可能はないでしょう。成功しかないでしょう。
&lt;/p&gt;
]]></content>
	</entry>
		<entry>
	  	<author>
			<name>ogawa</name>
		</author>
		<title>ELCまちづくりミッション17　究極のシンクロニシティ</title>
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		<modified>2008-09-29T09:41:50+09:00</modified>
		<issued>2008-07-22T20:42:18+09:00</issued>
		
	<dc:subject>General</dc:subject>		<summary type="text/html">	　前回に続いてシンクロニシティの話です。というのも、シンクロニシティは、ＥＬＣ ＪＡＰＡＮのポリシーだからです。シンクロマーケティング、シンクロマネージメントは当社の中心概念だからです。
	　何年か前に、上諏訪駅前の再開発事業を視察する機会がありました。20数年前には、核テナントを誘致しない画期的な事業モデルともてはやされましたが、そのときはもう無残にシャッターが下りている区画もあり、人出もまばらでいかにも衰退ビルという感じでした。観光客が上諏訪駅で降りるのでなく、茅野駅に降りて上高地や蓼科に向かうという時代の変化のほかに、車社会になって諏訪市の若年人口が隣の茅野市のほうに移動してまった、という都市構造も影響しているのでしょう。以前の面影はありませんでした。
　そのとき、私の友人の紹介で、上諏訪の近くにあるペンションの経営者の奥さんに会うことになっていました。とてもユニークな体験をされた方だから、一度あってみるといいですよと、紹介されたのです。これからの話は、その友人から聞いていた話をさらに再度、直接、本人から聞いた話です。
	　そのペンションは、以前大阪でサラリーマンをやっていたご主人が脱サラで始めたペンションで、Mさんが料理や接待のすべてを任されているのでした。一見、楽しそうにやっているように見えたペンション経営ですが、意外にも悩みを抱えているのでした。Mさんは、友人に次のような悩みを打ち明けたのでした。
	ペンション経営の悩み
　Ｍさんはご主人と彼女の両親と移り住んで、ペンションを始めたのですが、なかなか思うようにお客様が来ない、ということで、最初のうちはけっこう、厳しかったのです。「どうやったら、お客様に来ていただけるか」「お客が欲しい、お客が欲しい」ということで、かなり心は「貧欲」になっていました。
　しかし、段々とコツがわかってきて、ある程度経営が、うまくいき始めたのですが、唯一の悩みは何かというと、Ｍさんのお父さんの問題なのでした。
　お父さんは月に1回か2回、必ずヒステリーを起こして、台所で食器を壊したり、机をひっくり返したり、嫌がらせをするのです。特に、週末に東京あたりからお客様が来ておられて、クラシック音楽がかかって、フランス料理を出しているような、そういう時に限って、嫌がらせをするのです。台所で、ガチャーン！と食器を壊したり、わざと音を立てたり。
　そうすると、「ああ、このお客様は、もう2度と、うちにはこないだろうな」と、心がヒヤッと冷めてしまいます。
そういうことが、必ず、月に1回か2回は起こるのでした。
	　そうした頃に「どうしたら、いいでしょうか」という相談を、私の友人は受けたというのです。
	　友人は次のように答えました。一つは、
「あなたは、自分の都合のために、お父さんの心を変えようとしている」ということ。
それから、もう一つは、
「ある問題が起こった時に、一番苦しむ人が、その原因を作っている可能性が高い」ということです。
	　彼女は、その話を聞いて不満げでした。しかし、その日、彼女は家に帰ってよくよく反省したといいます。以下は、その時のＭさんの心境です。
	―――――――――――――――
被害者意識という名の「とらわれ」
　私は、確かに、父の心を変えようとしていた事に、気がつきました。それは分かったのですが、でも「一番苦しむ人が、原因を作っている」ということは、納得出来ませんでした。ペンション経営の当事者である自分。それに対して、迷惑を受けている自分。そして、そういう迷惑を作る父。一番苦しんでいるのは、自分なのです。だけど、どうして自分が原因を作ったのか。
	　というのも父が、月に1回か2回、ヒステリーを起こすのは、実は、父は、両方の耳が聞こえないからです。耳が聞こえないから、時々ストレスが溜まって、物を壊すのです。しかも、父は、6才の時に耳が聞こえなくなったのです。3才の時に、中耳炎の手術を失敗して、右の耳が聞こえなくなりました。それから、6才の時に、また中耳炎で、今度は左の耳が聞こえなくなったのです。6才で、もう両方の耳が聞こえなくなったという、身体障害者になってしまったのです。
　そしてずっと、大きくなって、幸い、結婚もできて、そして、私が生まれて、育てられたのです。ただし、育つ過程で、やはり父は、非常にヒステリックな方でした。私はいじめられて、体罰を受けて、虐待されるようなかたちで、育って来たのです。だから、父親に対して、憎しみこそあれ、親しみなど、全く感じなかったのです。
「自分は、被害者だ。自分が原因を作っている？とんでもない！むしろ私は、父の原因によって、結果を受けている立場だ。」
　最初は、そう思ったのです。自分に原因があるとは、とても思えませんでした。はじめは、それ以外は考えられませんでした。その考えに凝り固まっていたのです。
	不幸と見える現象をどう理解するか
　しかし、帰って、ずーっと、夜、反省してみました。
　自分に原因があるのだろうか。一番苦しんでいるのは、自分。どうしたらいい。
　ずーっと反省していった結果、ある場面が思い出されました
　それは、父が小さい時に、2人のお兄さんがいたのですが、そのお兄さんから、いじめられている父、馬鹿にされている父でした。そのイメージが、パッと浮かんだのです。
　その瞬間、私はハッと理解しました。
「お父さんは、いじめられてきた人なんだ。お父さんは、愛されてこなかったんだ。つらーい人生を歩んできた人なんだ」
　それが理解できたのです。その瞬間、私は、ドッと涙を流しました。
「申し訳なかった。私以上に苦しい人生を歩んできたのは、お父さんだったんだ。」
そう理解できたのです。そして懺悔の涙を、ずっと流し続けました。数時間、流し続けました。そしたら、やがて感謝の涙に変わっていきました。
　そういう人生であるにもかかわらず、自分を育ててくれた父。それに気づかなかった自分、そういう愚かな自分に気がついたのです。
　泣き続けて一晩開けて、翌朝、私が台所で食器を洗っていたら、父が何気なく横に立っていて、フキンを手に持ち、「何か手伝おうか？」と、言っていました。
　父が家事を手伝おうかと言ったのは、生まれて初めてです。
	　私の心が、父のそういった悲しい心を理解した瞬間に、父がコロッと変わってしまいました。
　私はそのころ、その地域の班長をやっていて、会合があって、その日、外へ出かけていたのです。そして、夕方帰ってきたら、父は、ペンションの庭を、ひとり黙々と掃除をしていたのです。
　今まで、たったの一度だってペンションの庭を掃いてくれるなんて無かった人が、自らそうやって、掃いてくれるようになったのです。
――――――――――――――――
	理解は許しに通じる
　つまり、Ｍさんの心が変わった瞬間、お父さんの心が変わった。何も声をかけたわけじゃないのです。何も、働きかけをしたわけではないのですが、心が変わったのです。お父さんの悲しい心が深く理解できた瞬間にお父さんが変わったのです。ここに深い心の共鳴、深いシンクロニシティを見ます。
　友人から聞いていた話を、私は再度じかに聞くことができて、とても感動しました。
	　結局、不幸のひとつは、理解できないところから、始まります。自分と意見が合わない人の、考え方、生き方というものもありますが、それらが理解できると、すべて許せるのです。
　相手の心が理解できないから、許せないのです。反発するのです。あるいは、憎しみを持ったりするのです。
	　数ヶ月経って、このＭさんが、私のところへお手紙を下さいました。どんな手紙かといいますと、
	波及効果の連続
　その後の経過を、お知らせしたいと思います。
今、父の自己変革が、どんどん進んでいます。
「困らせてやろう」が、「役に立ってやろう」に、変わりつつあります。
　時々、不調和な事もありますが、「ありがとう」という言葉が、圧倒的に、増えました。また、母に、とてもやさしくなりました。私は地域の班長をしているのですが、班の人たちにも奇蹟が次々と起きています。
	○Ａさん
「私はもう、お迎えを待つばかりだ」と言っていた、寝たきりのお母さんに、明るい笑顔と言葉かけで接するうちに、だんだん良くなり、「もう医者には行かない」と意地を張っておられたのが、毎週通院し、腰は曲がっていますが、歩けるようになりました。その速度も、今では普通の人と、同じ速さで歩けるのです。
○Ｂさん
　痴呆症の姑さんは、手のつけられない状態だったのですが、Ｂさんが、仕事を辞め、付きっ切りで看病された結果、排泄の感覚が麻痺していたお姑さんは、トイレで用を足せるようになり、Ｂさんの言うことも、通じるようになりました。
その後、この人は、痴呆症が治って、近所の方々と会話ができるようになりました。
　痴呆症解決のコツは、「やさしく言葉をかけ、抱きしめてあげること」、と言うのです。痴呆症は、普通治らないと言われています。特に、アルツハイマー型の痴呆症は治らないと言われています。ところが、これは治ったのです。コツは何かというと、やさしく言葉をかけ、抱きしめてあげることだそうです。
	究極のシンクロニシティ
　その後、Ｍさんのペンションでもお客様が増えて増えてしょうがないという現象が起こり始めました。シーズン・オフで、他のペンションはガラ空きなのに、「うちだけ、何でこんなにお客様がくるんだろう」というぐらい、集まり始めたのです。何の営業もしないのに、東京の旅行代理店からどんどん予約が入り始めたのです。
「不思議です」と言っていました。
	　こうして、父親のシンクロから始まって、地域のシンクロ、そして経営のシンクロが起こり始めたのですが、
ここから学ぶべきものは非常に多いと思います。
	　結局、自分の幸福も、家庭の幸福も、地域の幸福も、そして会社の繁栄も、すべて繋がっていて、自分自身の自覚、覚醒から始まるということです。ある意味で、自分の環境というのは、じつは自分で創りだしているのかもしれません。
たとえ、自分には原因がないと思うことであっても、自分の問題と捉えて努力すると、思わぬ成功の道が拓けるということです。
　これは、松下幸之助氏が言っていた「事の成らざるは自分にあり」と同じことです。（「決断の経営」ＰＨＰ文庫）
	　そのようなことに気づくこと、これは最強の事業戦略、最高の経営戦略です。
何の経営資源も要らない、何の投資も要らない、何のコンサルタントも要らない、何のコンピューターソフトも要らない。唯一、自分の心の神秘な力に気づくこと。そしてそれを実践すること。
ありがたいことにこれは、誰にでもできること。そしてすぐにできること。唯一決意さえあればできることです。この技術革新のディジタルの時代に、人間の力の、何と神秘的なことでしょう。

 </summary>
		<content type="text/html" mode="escaped" xml:base="http://www.elc-japan.com/modules/hosokawa_blog2/index.php?p=21"><![CDATA[	&lt;p&gt;　前回に続いてシンクロニシティの話です。というのも、シンクロニシティは、ＥＬＣ ＪＡＰＡＮのポリシーだからです。シンクロマーケティング、シンクロマネージメントは当社の中心概念だからです。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　何年か前に、上諏訪駅前の再開発事業を視察する機会がありました。20数年前には、核テナントを誘致しない画期的な事業モデルともてはやされましたが、そのときはもう無残にシャッターが下りている区画もあり、人出もまばらでいかにも衰退ビルという感じでした。観光客が上諏訪駅で降りるのでなく、茅野駅に降りて上高地や蓼科に向かうという時代の変化のほかに、車社会になって諏訪市の若年人口が隣の茅野市のほうに移動してまった、という都市構造も影響しているのでしょう。以前の面影はありませんでした。&lt;br /&gt;
　そのとき、私の友人の紹介で、上諏訪の近くにあるペンションの経営者の奥さんに会うことになっていました。とてもユニークな体験をされた方だから、一度あってみるといいですよと、紹介されたのです。これからの話は、その友人から聞いていた話をさらに再度、直接、本人から聞いた話です。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　そのペンションは、以前大阪でサラリーマンをやっていたご主人が脱サラで始めたペンションで、Mさんが料理や接待のすべてを任されているのでした。一見、楽しそうにやっているように見えたペンション経営ですが、意外にも悩みを抱えているのでした。Mさんは、友人に次のような悩みを打ち明けたのでした。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;&lt;b&gt;ペンション経営の悩み&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　Ｍさんはご主人と彼女の両親と移り住んで、ペンションを始めたのですが、なかなか思うようにお客様が来ない、ということで、最初のうちはけっこう、厳しかったのです。「どうやったら、お客様に来ていただけるか」「お客が欲しい、お客が欲しい」ということで、かなり心は「貧欲」になっていました。&lt;br /&gt;
　しかし、段々とコツがわかってきて、ある程度経営が、うまくいき始めたのですが、唯一の悩みは何かというと、Ｍさんのお父さんの問題なのでした。&lt;br /&gt;
　お父さんは月に1回か2回、必ずヒステリーを起こして、台所で食器を壊したり、机をひっくり返したり、嫌がらせをするのです。特に、週末に東京あたりからお客様が来ておられて、クラシック音楽がかかって、フランス料理を出しているような、そういう時に限って、嫌がらせをするのです。台所で、ガチャーン！と食器を壊したり、わざと音を立てたり。&lt;br /&gt;
　そうすると、「ああ、このお客様は、もう2度と、うちにはこないだろうな」と、心がヒヤッと冷めてしまいます。&lt;br /&gt;
そういうことが、必ず、月に1回か2回は起こるのでした。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　そうした頃に「どうしたら、いいでしょうか」という相談を、私の友人は受けたというのです。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　友人は次のように答えました。一つは、&lt;br /&gt;
「あなたは、自分の都合のために、お父さんの心を変えようとしている」ということ。&lt;br /&gt;
それから、もう一つは、&lt;br /&gt;
「ある問題が起こった時に、一番苦しむ人が、その原因を作っている可能性が高い」ということです。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　彼女は、その話を聞いて不満げでした。しかし、その日、彼女は家に帰ってよくよく反省したといいます。以下は、その時のＭさんの心境です。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;―――――――――――――――&lt;br /&gt;
&lt;b&gt;被害者意識という名の「とらわれ」&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　私は、確かに、父の心を変えようとしていた事に、気がつきました。それは分かったのですが、でも「一番苦しむ人が、原因を作っている」ということは、納得出来ませんでした。ペンション経営の当事者である自分。それに対して、迷惑を受けている自分。そして、そういう迷惑を作る父。一番苦しんでいるのは、自分なのです。だけど、どうして自分が原因を作ったのか。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　というのも父が、月に1回か2回、ヒステリーを起こすのは、実は、父は、両方の耳が聞こえないからです。耳が聞こえないから、時々ストレスが溜まって、物を壊すのです。しかも、父は、6才の時に耳が聞こえなくなったのです。3才の時に、中耳炎の手術を失敗して、右の耳が聞こえなくなりました。それから、6才の時に、また中耳炎で、今度は左の耳が聞こえなくなったのです。6才で、もう両方の耳が聞こえなくなったという、身体障害者になってしまったのです。&lt;br /&gt;
　そしてずっと、大きくなって、幸い、結婚もできて、そして、私が生まれて、育てられたのです。ただし、育つ過程で、やはり父は、非常にヒステリックな方でした。私はいじめられて、体罰を受けて、虐待されるようなかたちで、育って来たのです。だから、父親に対して、憎しみこそあれ、親しみなど、全く感じなかったのです。&lt;br /&gt;
「自分は、被害者だ。自分が原因を作っている？とんでもない！むしろ私は、父の原因によって、結果を受けている立場だ。」&lt;br /&gt;
　最初は、そう思ったのです。自分に原因があるとは、とても思えませんでした。はじめは、それ以外は考えられませんでした。その考えに凝り固まっていたのです。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;&lt;b&gt;不幸と見える現象をどう理解するか&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　しかし、帰って、ずーっと、夜、反省してみました。&lt;br /&gt;
　自分に原因があるのだろうか。一番苦しんでいるのは、自分。どうしたらいい。&lt;br /&gt;
　ずーっと反省していった結果、ある場面が思い出されました&lt;br /&gt;
　それは、父が小さい時に、2人のお兄さんがいたのですが、そのお兄さんから、いじめられている父、馬鹿にされている父でした。そのイメージが、パッと浮かんだのです。&lt;br /&gt;
　その瞬間、私はハッと理解しました。&lt;br /&gt;
「お父さんは、いじめられてきた人なんだ。お父さんは、愛されてこなかったんだ。つらーい人生を歩んできた人なんだ」&lt;br /&gt;
　それが理解できたのです。その瞬間、私は、ドッと涙を流しました。&lt;br /&gt;
「申し訳なかった。私以上に苦しい人生を歩んできたのは、お父さんだったんだ。」&lt;br /&gt;
そう理解できたのです。そして懺悔の涙を、ずっと流し続けました。数時間、流し続けました。そしたら、やがて感謝の涙に変わっていきました。&lt;br /&gt;
　そういう人生であるにもかかわらず、自分を育ててくれた父。それに気づかなかった自分、そういう愚かな自分に気がついたのです。&lt;br /&gt;
　泣き続けて一晩開けて、翌朝、私が台所で食器を洗っていたら、父が何気なく横に立っていて、フキンを手に持ち、「何か手伝おうか？」と、言っていました。&lt;br /&gt;
　父が家事を手伝おうかと言ったのは、生まれて初めてです。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　私の心が、父のそういった悲しい心を理解した瞬間に、父がコロッと変わってしまいました。&lt;br /&gt;
　私はそのころ、その地域の班長をやっていて、会合があって、その日、外へ出かけていたのです。そして、夕方帰ってきたら、父は、ペンションの庭を、ひとり黙々と掃除をしていたのです。&lt;br /&gt;
　今まで、たったの一度だってペンションの庭を掃いてくれるなんて無かった人が、自らそうやって、掃いてくれるようになったのです。&lt;br /&gt;
――――――――――――――――&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;&lt;b&gt;理解は許しに通じる&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　つまり、Ｍさんの心が変わった瞬間、お父さんの心が変わった。何も声をかけたわけじゃないのです。何も、働きかけをしたわけではないのですが、心が変わったのです。お父さんの悲しい心が深く理解できた瞬間にお父さんが変わったのです。ここに深い心の共鳴、深いシンクロニシティを見ます。&lt;br /&gt;
　友人から聞いていた話を、私は再度じかに聞くことができて、とても感動しました。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　結局、不幸のひとつは、理解できないところから、始まります。自分と意見が合わない人の、考え方、生き方というものもありますが、それらが理解できると、すべて許せるのです。&lt;br /&gt;
　相手の心が理解できないから、許せないのです。反発するのです。あるいは、憎しみを持ったりするのです。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　数ヶ月経って、このＭさんが、私のところへお手紙を下さいました。どんな手紙かといいますと、&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;&lt;b&gt;波及効果の連続&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　その後の経過を、お知らせしたいと思います。&lt;br /&gt;
今、父の自己変革が、どんどん進んでいます。&lt;br /&gt;
「困らせてやろう」が、「役に立ってやろう」に、変わりつつあります。&lt;br /&gt;
　時々、不調和な事もありますが、「ありがとう」という言葉が、圧倒的に、増えました。また、母に、とてもやさしくなりました。私は地域の班長をしているのですが、班の人たちにも奇蹟が次々と起きています。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;○Ａさん&lt;br /&gt;
「私はもう、お迎えを待つばかりだ」と言っていた、寝たきりのお母さんに、明るい笑顔と言葉かけで接するうちに、だんだん良くなり、「もう医者には行かない」と意地を張っておられたのが、毎週通院し、腰は曲がっていますが、歩けるようになりました。その速度も、今では普通の人と、同じ速さで歩けるのです。&lt;br /&gt;
○Ｂさん&lt;br /&gt;
　痴呆症の姑さんは、手のつけられない状態だったのですが、Ｂさんが、仕事を辞め、付きっ切りで看病された結果、排泄の感覚が麻痺していたお姑さんは、トイレで用を足せるようになり、Ｂさんの言うことも、通じるようになりました。&lt;br /&gt;
その後、この人は、痴呆症が治って、近所の方々と会話ができるようになりました。&lt;br /&gt;
　痴呆症解決のコツは、「やさしく言葉をかけ、抱きしめてあげること」、と言うのです。痴呆症は、普通治らないと言われています。特に、アルツハイマー型の痴呆症は治らないと言われています。ところが、これは治ったのです。コツは何かというと、やさしく言葉をかけ、抱きしめてあげることだそうです。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;&lt;b&gt;究極のシンクロニシティ&lt;/b&gt;&lt;br /&gt;
　その後、Ｍさんのペンションでもお客様が増えて増えてしょうがないという現象が起こり始めました。シーズン・オフで、他のペンションはガラ空きなのに、「うちだけ、何でこんなにお客様がくるんだろう」というぐらい、集まり始めたのです。何の営業もしないのに、東京の旅行代理店からどんどん予約が入り始めたのです。&lt;br /&gt;
「不思議です」と言っていました。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　こうして、父親のシンクロから始まって、地域のシンクロ、そして経営のシンクロが起こり始めたのですが、&lt;br /&gt;
ここから学ぶべきものは非常に多いと思います。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　結局、自分の幸福も、家庭の幸福も、地域の幸福も、そして会社の繁栄も、すべて繋がっていて、自分自身の自覚、覚醒から始まるということです。ある意味で、自分の環境というのは、じつは自分で創りだしているのかもしれません。&lt;br /&gt;
たとえ、自分には原因がないと思うことであっても、自分の問題と捉えて努力すると、思わぬ成功の道が拓けるということです。&lt;br /&gt;
　これは、松下幸之助氏が言っていた「事の成らざるは自分にあり」と同じことです。（「決断の経営」ＰＨＰ文庫）&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　そのようなことに気づくこと、これは最強の事業戦略、最高の経営戦略です。&lt;br /&gt;
何の経営資源も要らない、何の投資も要らない、何のコンサルタントも要らない、何のコンピューターソフトも要らない。唯一、自分の心の神秘な力に気づくこと。そしてそれを実践すること。&lt;br /&gt;
ありがたいことにこれは、誰にでもできること。そしてすぐにできること。唯一決意さえあればできることです。この技術革新のディジタルの時代に、人間の力の、何と神秘的なことでしょう。
&lt;/p&gt;
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	  	<author>
			<name>ogawa</name>
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		<title>ELCまちづくりミッション16　シンクロニシティ（共時性）</title>
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		<modified>2008-06-16T19:42:14+09:00</modified>
		<issued>2008-06-16T19:00:23+09:00</issued>
		
	<dc:subject>General</dc:subject>		<summary type="text/html">	　企業活動であれ、まちづくりであれ、成功の鍵というのは、事業という観点で言えばそう大きな違いはありません。企業活動もまちづくりも、成功の本質は同じだと考えていいでしょう。うまくいくと